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島津のエンブレム「〇に十字」についての豆知識

ツイッターの「戦国島津プロジェクト」を見て、この記事を書きました。
島津の家紋〇に十字ですが、とても細かい決まりと島津家分家や家臣の家紋が沢山あってしかも微妙に違うのですが、それぞれの形がよく似ています。
島津宗家の〇十字は〇と十字の先がきちんとつながっています。
ちなみに都城島津家は江戸時代に宗家と区別するために〇と十字の部分がくっつかないようにしなさいと指導というか命令がありました。
この命令、徳川家の葵の御門(水戸黄門で出る例のアレ)について将軍家と御三家で見分けがつくようにしたのが発端らしく、島津家もそれに習ったことらしいです。
この話に家格(宗家だ一門衆だ家老格だその他もろもろ)の話をしだすときりがないくらいいろいろな逸話が出てきます。
ウルトラマンの写真をコレクションしたり、キン肉マン消しゴムや野球選手カード、ビックリマンカード、いまならプリチャンカードを集めた方は沢山いると思います。
もし、島津が大河ドラマになって一大島津ブームが起きたら武将カードとか家紋カードとかが流行ってコレクターが沢山なんてことになりませんかね~。
玩具メーカーの皆様、もしよかったら企画と応援よろしくお願いします。
以上島津エンブレムの豆知識でした。

8件のコメント

  • 皇室の菊花紋章のようですね。
  • おっしゃる通りだと思います。
    あまりに恐れ多くて、皇室の紋章という発想は出ませんでした。
    私はあまり詳しくないですが、戦艦の先端についている紋章も含めて沢山有りますね。
    ありがとうございます。
  • 分家と本家。
    昔は差が大きかったのですね。
  • ありがとうございます。
    江戸時代の封建制度、長男、とそれ以外という区分けをきちんとして身分制度をきっちり守っていこうという動きがこうした行動につながったようです。
    歴史をたどっていくとそれも当然で、鎌倉時代から下克上の戦国時代まで一族の中で長男家が右なら次男家は左、みたいな感じで勢力が分かれていましたから、太平の世を目指す江戸幕府としては緊急にやっておかなければならないしきたりだったと思います。
    最近、鹿児島県で知事選挙がありましたが、元の自民推薦知事が立憲支持に、前の知事が革新系推薦から、自公支持で選挙をしたのも似たような感じだったのかと思います。(結局無党派候補が当選しましたが)
    島津プロジェクトさんのツイッターによると島津義弘の家紋として使われていたのが実は家臣の川上氏の物だったそうで。
    例えるなら外国の方が日本の変な言葉がのっているシャツを買ったような感覚でしょうか。
    長文失礼しました。
  • 戦国島津一統の苦労が、そこに現れているようです。家格や序列を下士にまでわたって明確化するのは、島津家がそれだけ多くのものを糾合してきた証と言えます。
    西郷さんの頃には、城廻から居住区まで、綺麗に住み分けられていたようで。これも島津家ならではですね。
  • ありがとうございます。
    現代の感覚だと息苦しく感じるかもしれませんが、伝統ある武門の島津家にとっては死活問題といっても過言ではない重要な政策だったと思います。
    天皇家でさえ、親兄弟が争い戦乱を招いていました。
    まして、中央集権ではない時代においては親兄弟の争いは日常茶飯事だったでしょう。
    関東の室町時代を調べてみると兄弟ごとに勢力が二分されていて、しかも敵味方が入れ替わることも頻繁に起きていました。
    一方で西郷さんをはじめ多くの下級士族が幕末から明治に活躍したのもこうした背景を考えると興味深いことだと思います。
    私もコメントのおかげで勉強できました。
    重ねて感謝申し上げます。
  • 菊花紋章は重ねてあるもの、周囲に意匠が施してあるもの、菊の正面ではなく側面を描いたものなどたくさんありますが、いずれも天皇に由来する家しか使うことのできないシンボルマークでしたからね。

    菊と葵の紋は血筋の特定が容易かと思います。
  • 詳しい補足ありがとうございます。
    さすがに武家が主役の戦国時代だと菊の紋はあまり見かけませんが、もしかしたら見逃しているだけかもしれませんね。
    やはり歴史が長いだけあってとても奥が深そうです。
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