透明にされてきた人達、といえば虎に翼で使われた言葉でもありました。
透明にされてきた人達、或いは私が透明にした人達、透明で生きることを決めた人達……となんとなしにこの話を書こうと思ったのは、「なんでもかんでも生物と関連づける人がいて嫌」という友人の言葉から生まれたものでした。
透明な人間には「生物」という言葉が繰り返し使われます。それは主人公が言われてきた残酷な言葉としての単語です。
生物はあくまで生物であり、そこに研究という名の媒体を付与して語ることの、傲慢さと理解したふりをする人間こそ恐ろしいものはないと思います。
とはいえ、生物学を学んだ人や専門の人は、こういうことは全く言わないので誤解なきようお願いします。
中途半端に知識をつけた人や理解しない人がよく使うんですよね。「生物」という言葉を。
繰り返しとなりますが、透明な人間に「生物」と繰り返しあるのはそういう人がいるという批判を込めた言葉でもあります。
理解しているようで自分が理解する為に生物という言葉を使って説明しようとする人は一定数います。
そこには「生物」なら繁殖しようとしない人はおかしいがなければ生まれない発想だとも思えてしまうのです。
どんな人生を選ぼうとも、その人生はその人のものであり、他人が口を出すいわれはない。
厳しい口調となりましたが、本当にそう思うのです。
理解といえば優しい言葉のようにも思えますが、その人の言葉を聞かない理解はただの押し付けです。
透明な人間では恋をしない人、理解出来ない人とゲイの人を書きましたがあくまでその登場人物の、性格と生き方であり、他の人に当てはまるものではないことをここに記させてください。
それは当たり前ですが、人類全ての人がそうであり、性別や、障害や、環境、病気、ありとあらゆるものを含めて、それぞれに違います。
ドラマなどで特定の何かがテーマにされる時、代表のように取り上げられ、「そうか。この人はこうなんだ」と思われる方も中にはいらっしゃいます。
ですが、ドラマの中の取り上げられたテーマなどは人それぞれであり、大事なのはその人の言葉だと思います。
透明な人間を読んでくださり、ありがとうございます。
誰かを批判する言葉ではなく、透明な人間という物語の中の人はあくまで一人の人間の物語です。
いつかこのお話の中の人達が苦しまない世界が来ることを祈りたいです。
改めて近況ノートを読んでくださり、ありがとうございます。