「謙遜」はいいのだが、私もカルトでかなり歪んだ人物。
「鬼の線路工事」を受けた結果
「間違った謙遜」を自分自身の中に持っている。
→ 大したもんじゃない
(自分なんて)
外面への謙遜は大いに必要だが、内面に向けてしまうのは間違い。
それを教える言葉が
→ 「あたぼう」
これは
「当たり前だ」
「べらぼうめ」
という言葉の合体だとされている。
しかし英語のヒントがこれ。
【attaboy】アタボーイ
「いいぞ!」
「よくやった!」
激励・賞賛の叫び。
これが「あたぼう」と同一であるとすれば、奇妙に思えるだろう。
なぜ、そんな賞賛を自分に向けているのだろう?
■間違った謙遜を正す
独断と偏見で押し切ってしまえば、先人は「あたぼう」をこう使っていた。
→ 自分自身へのコメント
「あなたは凄い」
「非常に価値のある人だ」
誰もそんな話をしてくれないが
自分で自分の価値を認めるのは自分しかいないし、その態度は間違いじゃない。
本当に間違っているのは
→ 間違った謙遜
多くの人は「心の中」で自分を卑下する癖があると思う。
(カルト出身に多い後遺症)
人前で自分の凄さを自慢するなら敬遠されるが、当然それは避けるべき事。
しかし、自分の心の中で称賛された経験を「あたぼうよ」と評価していれば
「それは嘘じゃない」
と信じる形になる。
これが重要。
(自分への励まし)
この心理状態を保てば、その価値に見合った待遇を受けるようになるからだ。
無言で発する念が集団社会における自分の価値を高めてくれるからである。
もう一度確認しよう。
自分の心の中で自分の価値を扱き下ろすのは、真の謙遜じゃなく、神の観点からも間違いである。
自分で自分の評価を貶めるなら、その人はそれだけの人生しか経験できない。
「何も出来ない」とか、「技術がない」、「センスがない」とかは、人間の価値を決めてはいないのだ。
自分で自分の価値を認め、
「あたぼうよ」と言ってやろう。