研修に行ってきたという館羽は、家を出て行ったときと同じスーツ姿で帰宅した。
普段着ではスカートが多めな館羽のパンツスタイルが見られる貴重な瞬間だった。いつものかわいらしさも好きだけど、垢抜けた感じの館羽も好きだった。
玄関で出迎えると、ドアが閉まるよりも早く館羽が「瑠莉ちゃん瑠莉ちゃん」と私の名前を呼んだ。
「どうしたの?」
「これ」
館羽が手をお椀のような形にして広げている。
手の中には蜘蛛がいた。胴体は黄色くて、かなり大きい。館羽の手の中にすっかり収まった蜘蛛は逃げる様子もなく大人しい。
「帰ってる途中ね、虫がいそうな空き地があったから寄ってみたの。そしたらやっぱりいたんだ。これ、コガネグモだよ!」
「コガネグモ?」
「この胴体にある黄色と黒の縞模様が特徴なの。造網性の蜘蛛なんだけど白いモヤモヤを巣に作るちょっと変わった蜘蛛で、昔はよくいたんだけど県によっては絶滅危惧種に指定されてる蜘蛛なんだ」
よく見ると、館羽のスーツには枯れ木の破片や泥の跡がついていた。研修の帰りに草むらをかき集めて進む館羽の姿がなんとなく想像できて微笑ましかった。
館羽は手の中の蜘蛛を愛おしそうに見つめている。
「ねぇ、瑠莉ちゃん」
「飼ってみたら?」
上目遣いで私を見る館羽の言いたいことが、なんとなく分かって先に言ってみる。館羽は目をキラキラとさせて今にも飛び跳ねそうだった。
「虫かご確かあったよね。とりあえず今日はそこにいれて、明日もうちょっと大きな虫かご飼ってくるとか」
虫かごには、あまり良い思い出はなかった。思い出すのは、死骸の入った腐敗した土とその腐臭。それを見て落ち込んでいる館羽と、絶望に満ちたその瞳、窓から人が落ちてきたあのときの悲鳴と鈍い音。
羽化不全を起こして死んだ蝶の幼虫を自分と重ねて、苦しんでいた館羽の過去。
それらを想起させる四角いケースに、今度は蜘蛛が閉じ込められる。
「餌はどうするの?」
「蜘蛛は生きてる虫しか食べないから、あとで捕ってくるよ。夜になれば自動販売機の周りにいっぱい虫が集まるだろうから」
虫かごは、館羽の愛用している本棚の上に置かれた。少女漫画類の上にコガネグモ。それを見て嬉しそうに微笑む館羽。
ご飯の時間になっても、館羽は虫かごの前から離れなかった。
大人になった私たち。スーツ姿の館羽。外見ばかりが成長していくなかで、館羽の中にはすり切れない何かがある。
館羽は時々、蜘蛛に話しかけては微笑んだ。
「とりあえず、着替えたら?」
笑いながら言うと、館羽は虫かごの前でパンツだけ下ろして、そしてそのまま、着替えをやめてしまった。脱皮の途中みたいな状態になっている。黒のスーツの下にあるピンクの下着を見ると、ノスタルジックな気分になってしまうのは何故だろう。
大人になった私たちと、過去の稚拙が混在するこの空間。
「瑠莉ちゃん瑠莉ちゃん! 今、こっちに手振ったよ!」
「えー? 蜘蛛が!?」
「うん! ほら!」
喜ぶ館羽に手招かれて、私も箸を置いて本棚の前に座る。
蜘蛛は私を見ると、手をこちらに伸ばして、わちゃわちゃと動かした。
それだけで、館羽は頬を綻ばせる。
少しだけど、嫉妬した。
でも、館羽が何かを好きになっていくのは、どうしてか安心する。
館羽が何かに熱中し、何かにハマる。誰にでもあるようなそんな光景を館羽が背負っていると、私もどうしようもなく嬉しくなる。
好きという感情は、いつだって自分を助けてくれる。
館羽がもし、自分を追い詰めてしまったとき、私という存在だけじゃ埋められなくなったとき。きっとその「好き」が強い味方になってくれるはずだから。
蜘蛛を飼い始めて一週間ほど経った頃だった。
お風呂からあがると館羽の姿がなかった。
さっきまではいたのに、買い物かな?
髪を乾かしながらスマホを見ると、館羽からメッセージが届いていた。
『公園まで餌を探しに行ってるね』
時計はすでに九時を指していた。こんな遅くに、大丈夫だろうか。
少しだけ考えて、私はパジャマではなくジャージに着替えた。
戸締まりをしっかりしてから、マンションを出る。この付近に公園は一つしかない。私はサンダルを鳴らしながら公園に向かった。
公園は大きく、親御さんが子供を遊ばせるのに絶好の場所なので、休日になるととても賑やかになる。そんな公園は、夜九時ともなると様相を変えた。月に照らされる大きな滑り台やアスレチックはどこか不気味で、人気のない閉鎖された空間は安全とは言えなかった。
広場を抜けた先に雑木林がある。おそらくそこにいるだろうと進むと、隣の駐車場にパトカーが停まっているのが見えた。
赤いランプ……まるで記憶をかき混ぜられたかのようだった。
警察は、今でも苦手だ。別に警察が悪いわけじゃない。けど、私の過ちと、悪行を思い出すとき、私を捕らえた人たちの服装と、連行された車内に灯る赤い光はどうしても付随して離れない。
胸が苦しくなり、私は足を止めた。交番の前を通るだけでも、動悸がする。警察官を見るだけで、ごめんなさいと謝りそうになる。もう何もかもが終わったはずなのに、私にはまだ償い終わっていない罪があるんじゃないかと錯覚して、頭が真っ白になる。
嘔吐いたあたりで、私は引き返そうとした。
けど、パトカーのすぐそばで警察官二人が囲んでいる人の影を見て、足を止めた。
「館羽……?」
どうして館羽が警察官に囲まれているのだろう。
館羽は顔を伏せて、身を縮こまらせている。
気付いたときには、私は駆け出していた。
「館羽!?」
私に気付いた館羽は、大きな瞳に浮かぶ水面を揺らして「瑠莉ちゃん……」と小さく私の名前を呼んだ。
「お知り合いですか?」
その声色に、ぞわっとする。
人間味のない、まるで機械のような淡々とした口調。
警察官二人が、懐中電灯で私を照らした。
見つかった。
そう思った。
けど、私は何も悪いことはしていない。いや、した……のか。五年前の、あのときのことを言っているのか。
冷や汗が背中に滲む。
いや、この人たちが刑事事件にもなっていない他県の事情まで知っているわけがない。落ち着け。
「はい。えっと、これは職務質問ですか?」
「形式上ではそういうことになるね。彼女がこのあたりをフラフラと歩いていたものだから、どうしたの? って声をかけたんだ。でも、彼女教えてくれなくって」
「そうなの? 館羽」
顔を伏せたままの館羽に問いかける。館羽は頼りなく、首を横にふるふると振った。
「言った……けど、信じてくれなくって」
「なんて言ったの?」
「蜘蛛の餌を、探してましたって……」
警察官二人を睨むと、今度はもう片方の警察官が肩を竦めながら言った。
「ここの近くで事件があったのは分かる?」
私は首を横に振った。
「ちょうどそこの池でね。被害者は一命を取り留めたけど、犯人の凶器がまた見つかってないんだ。そんなときに、彼女がこの池の近くをウロウロとしていて、何かを探しているようだったから声をかけたんだ」
「それもかなり念入りに探してたよね。君、まだ若いでしょう。綺麗なんだから、あんな風にしゃがんじゃだめだよ。それとも、それほど必死になって探さなきゃならないものでもあったのかな?」
白々しい尋問だったが、館羽はそれに健気に答えた。
「だ、だからっ……蜘蛛の餌を……」
「こんな若い女の子が蜘蛛の餌なんて探して何になるのさ。まさか飼ってるとでも?」
「苦しい言い訳に聞こえちゃうんだよねぇ。まあさ、僕らも疑ってるわけじゃないんだ。ただちょっと詳しく話を聞きたいだけで。署まで来てもらえるよね?」
伸びてくる、遠慮のない手。正義で塗り固められた、整然とした手のひら。
「若い女の子が蜘蛛を飼ってちゃだめですか?」
「ダメっていうかさ、信憑性に欠けるっていうか」
大人びた冷笑。常識的な物言い。
そのどれもが、とてつもなく私を苛立たせる。
「申し訳ないですけど、この子は本当に蜘蛛を飼ってるんです。蜘蛛は生きた虫しか食べないからって、こうやって公園まで探しにきたんです」
「んー、でもさあ……」
煮え切らない警察官二人。
館羽は、どうすればいいか分からない様子でずっと俯いていた。
「館羽、コガネグモってどんな蜘蛛?」
「え?」
館羽がそこで初めて、顔をあげた。私と、警察官を交互に見て、不安気な表情を浮かべる。
「詳しくでいいから、この人たちに教えてあげて。飼ってる蜘蛛について」
「う、うん」
館羽は戸惑ったようではあったけど「えっと」と小さく呟いてから説明を始めた。
「まず、コガネグモっていうのはジョロウグモって呼ばれることはあるけどジョロウグモとは別種なんです。外見は確かに似ているしジョロウグモはコガネグモ科に属していたこともあるのでそれで混合されやすいんですけど、よく見るとちゃんと違いはあって、コガネグモは腹部が幅広いのに対して、ジョロウグモは楕円形なんです。その他にも足の太さとか横しまの色とかにも違いはあるんです」
館羽は胸の前で両手を合わせながら、一生懸命話した。
「巣作りに関しても違いはあって、コガネグモは楕円形の白帯を作るのに対してジョロウグモは直線上の白帯を作るんです。あっ、白帯っていうのは、えっと、巣に形成される白いモヤモヤみたいなもので、昔は蜘蛛の足場に使われるんだって言われていたんですけど、最近では獲物をおびき寄せるための光の反射とか、捕食者から身を守るためのものだと判明したんです。まだまだ分からないことばかりですけど、蜘蛛ってすごくて、人間じゃ想像もしないような工夫をこらして巣を作るんです。幼体は秋に孵化して、バルーニングをするんですけど、バルーニングってすごいんですよ。主に幼体にしかできないんですけど、糸を空中に吹き流して風で移動するんです。他にも蜘蛛って糸を使ったすごい技をたくさん持っていて、それらを駆使して必死に生きているんです。その卓越された生存戦略と、糸を利用した巧みな移動方法はもはや芸術といっても過言ではなくってっ」
夜の公園に、館羽の熱弁が大きく響く。
まだ止まらない館羽の言葉を遮るように、警察官が「あー」と言った。
「うん、分かった。もう大丈夫だよ、ごめんごめん、蜘蛛が好きな若い女の子なんて珍しいからさ、なんか隠してるのかなと思ってたんだけど、どうやら本当に好きみたいだ」
「ごめんね、僕らも仕事だから、はいそうですかって信じるわけにはいかないからさ」
警察官二人の顔が、呆れたような、見下すような、分からないが決して心地よくはない表情に変わる。
「ただ、夜の公園を一人で歩いて、あんな風に餌を探していたら僕じゃなくても声をかけると思うから、充分に注意するように」
「はい、すみません……」
しょんぼりと項垂れた館羽の言葉を最後に、警察官はパトカーに乗り込んで去って行った
赤いランプが遠くに消えると、どっと汗が噴き出した。今までの問答の間、自分がちゃんと息をしていたのか、記憶にない。
息を吐ききって、心を落ち着かせる。
「館羽、帰ろ」
館羽の手を握ると、驚くほど冷たかった。そして、土で汚れていた。
マンションに帰るまで、館羽は一言も喋らなかった。
「私はもうお風呂入ったから、館羽も入っちゃって」
館羽は「うん」と小さく頷くと、脱衣所に行く際、ぼそっと呟いた。
「変なのかな」
「え?」
「蜘蛛が好きって……変なのかな」
「館羽……」
何もかもを否定され、自分が分からなくなる。
その苦しさは、私にも分かる。そして、そういうときに一番怖いのが、月並みな励ましで価値観を捻じ曲げられることだった。
だから私も、下手なことは言えない。
ただ、これだけは館羽に知ってもらいたかった。
「変って悪いことじゃないよ」
脱衣所の扉が閉められる。扉の向こうから、館羽がきちんと私の言葉を聞いてくれている気配がした。
「蜘蛛がみんな、同じ模様じゃないように」
その言葉が、どれだけ館羽に届いたか分からない。
結局、扉の向こうから返答が返ってくることはなかった。
聞こえてくるシャワーの音は、どこか寂しげに聞こえた。
その翌日だった。
専門学校のお昼休み、突然館羽から電話がかかってきた。
「もしもし? どうしたの館羽」
『あ、あのっ、瑠莉ちゃん……今日、ちょっと子供たちを家に呼んでもいい?』
おそらくまだ仕事中なのだろう。電話の向こうで子供たちの声がした。
「うん、私は別に大丈夫だよ。何か用事?」
『え、えっとねっ、わっ! ちょっと、あとでね! ほら、先生電話してるから。大丈夫だって、うん。……あっ、瑠莉ちゃん!? ごめん、じゃあ、そういうことでっ!』
もみくちゃにされるように小さくなっていく館羽の声。
電話を切ると、クラスメイトが「どうしたの?」と尋ねてくる。
何がなんだかわからない私は、曖昧に首を傾げるしかなかった。
そんなわけなので友達からの誘いは断って、私は真っ直ぐ家に帰った。
館羽の仕事が終わるのと私の学校が終わるのはほぼ同時だけど、電車通学の私の方が家に帰るのは早い。
館羽が帰ってくるまで、部屋を掃除することにした。子供たちが来るっていうし……というか、子供「たち」って。何人来るんだろう……。
何がなんだか分からないまま、掃除機をかけているとマンションの廊下からドタドタと足音が響いてきた。
あ、きた。
そう思ったのと、扉が開いたのはほぼ同時だった。
「おかえり館羽……わっ」
館羽より先に子供たちが私の目の前に現れた。全部で四人。礼儀正しくお辞儀をすると、卒業式の号令みたいにみんなが揃って「はーじーめまーしてーおじゃーまーしまーす」と元気よく挨拶する。
「あはは、どうぞ。あがって」
子供たちを部屋に招き入れると、続くように館羽が入ってくる。
「おかえり館羽。なんだかすごいにぎやかだね。どうしたの?」
「ただいま瑠莉ちゃん。えっとね……」
「せんせー! はやくー!」
部屋の中から館羽を呼ぶ子供たちの声がした。
子供たちは、本棚の前に集まっていた。館羽は慣れたように子供たちの肩に手を置いて、本棚の上にある虫かごを指さした。
「ほら、ここだよ。見える?」
「ほんとだ! すっげー! こんなおっきなくもはじめてみたー!」
「ぐーよりも大きいなんてぜったいうそだっておもってたのに!」
「ほらね! あさみせんせーはうそつかないんだよ!」
「せんせー、これって人もたべるの?」
「あはは、人は食べないよー」
蜘蛛を指さしては、大はしゃぎする子供たち。
それに、笑いながら、どこか誇らしげに説明する館羽。
館羽の言葉一つ一つを真剣に聞きながら「せんせ、せんせ!」と質問する子供たち。
子供たちに慕われる館羽はとってもかわいくて、カッコよくて。館羽の大好きな虫を興味津々に見つめる子供たちもまた、純真で、一心に何かを信じて、受けて止めている。
そんな光景を遠巻きに見ながら、戸棚にお菓子が入っていたのを思い出す。
キッチンの棚を開けて、入っていたクッキーを取り出すと、どこか懐かしい。
優しい香りがいっぱいに広がった。
「みんな、お菓子食べる?」
ジュースと一緒に持って行くと、子供たちが一斉に集まってくる。
ひょいひょいと伸びてくる手。
その中に館羽の手も混ざっていたのが面白くて、私は思わず笑ってしまった。