令和6年4月12日、母が永眠しました。
母は進行性核上性麻痺という病気で、症状がはっきりし医師の診断を受けてから約1年での逝去でした。
進行性核上性麻痺は大脳を中心として脳内の神経細胞が減少し、運動機能が低下していく病です。最初は何もないところでよく転んだりするようになるという事なので、思い返せば数年前から兆候は出ていたように思います。
診断を受けたころにはもうひとりでは歩けなくなっており、やがてペンや箸も持てなくなって、固形物が食べられなくなっていきました。その辺りで自宅での介護が難しくなったため、施設に入居しました。
しばらくは施設で流動食を食べさせてもらっていましたが、誤嚥性肺炎の予防のため、食事や水も規制され、ほどなく点滴のみでの生活になりました。施設の入居の少し前くらいから、もう話すことも出来なくなっており、意思の疎通もできませんでした。
胃瘻の手術をする選択肢もありましたが、まだ発病する前に本人からは「もしいつか自分がそういう体になっても、延命措置とかはしないで自然に逝かせてほしい」と言われていたこと、また父や伯母も「これ以上痛い思いはさせたくない」と望んだこともあり、胃瘻やポート手術などはせず、点滴のみにすると家族で決めました。
最後は瞼も開けられなくなり、また血中の酸素濃度も低下したため、酸素吸入器を付けてもらっていました。
酸素吸入器を付けた2日後の朝、呼吸が止まりました。
私はその時ちょうど出社したばかりでしたが、前日から泊まりに来ていた妹からの電話ですぐに帰りました。
すぐに伯母らにも来てもらい、皆が揃ったところで医師により死亡を確認してもらいました。9時18分でした。
施設のスタッフの皆様に体を拭いてもらい、生前よく着ていた服を着せてもらいました。体を拭くのは妹も手伝っていました。
その間に父が葬儀社に電話をしていました。
私も何かしていたと思いますが、その後色々あったので、このときのことはよく覚えていません。多分大して重要なことではなかったと思います。
それから施設の車で自宅まで母を運んでもらい、母の病室にあった私物も自宅まで運びました。施設に入居する際に新しく購入したテレビや、私が持ち込んだテーブル付きの折りたたみ椅子、結局ほとんど袖を通すことがなかった母の着替えなどです。
生前、施設で母はずっとテレビを見ていました。私は週末になると母の病室に行き、持ち込んだ折りたたみ椅子に座って、ノートパソコンで小説の執筆をしたり、いただいたコメントのお返しをしたりしていました。病室に備え付けてある椅子は母のベッドのすぐ脇に置かれ、父がずっと座っていました。病室のテーブルには薬品や医療消耗品が乗っていたので、テーブル付きの椅子はマストなアイテムでした。
亡くなる二月ほど前くらいには、母はもう表情も変えられなくなっていましたので、そんな私たちをどう思っていたのかはわかりません。テレビを見るのに邪魔だなとか思っていたのかもしれません。
でも、私が退室する時には、扉が閉まるまでずっと目で私を追ってくれていました。
自宅に迎えた母を真っ白なシーツを被せた布団に寝かせ、白くてキラキラした薄い布を掛けました。たぶん何かカッコいい名前とか付いている布なんだと思いますが、私は寡聞にして存じません。
母の眠る仏間の隣の和室で、死亡届を記入しました。
故人の自宅や本籍、死亡が確認された住所など、医師に書いてもらった死亡診断書と全く同じ内容にしなければならず、書き慣れた自宅住所の記入ではつい省略しがちなワードも漏れなく記載する必要があります。私は副業とはいえ曲がりなりにも文章を書く仕事をしておりますので、葬儀社の方の「もうこれで予備も無くなってしまったので本当に気を付けてお願いします」という励ましの言葉のもと、最後は無事ミスなく書き上げることができました。
その後、父や妹、伯母らと一緒に葬儀社の方と打ち合わせをしました。祭壇や棺、着物、遺影の背景など、主に花が多めのデザインにしてもらいました。
母は生前、花が好きでした。お茶とお華の師範を持っていましたが、お茶は言われたからやっていただけだけれど、お華は好きでやっていたようでした。生け花は晩年はやっていませんでしたが、百均やホームセンターで造花を買ってきてよくアレンジしていました。そうして作った小物が今も自宅の至る所に飾られています。
遺影に選んだ写真は四年ほど前のもので、妹家族を交えて両親の同級生が経営しているブドウ農園へブドウ狩りに行ったときのものです。点滴のみで闘病していた、現在の母の顔とは似ても似つかないものですが、元気だった頃の母の顔というと確かにこの顔が思い浮かびます。
打ち合わせが終わると葬儀社の方は一旦戻り、またすぐに葬儀の次第を印刷した紙を持ってきてくれました。私はその紙をスキャンし、会社や友人に連絡をしました。ちょうどこの日にこの週末が締切のお仕事をいただいたばかりでしたので、カドカワBOOKSの担当様にも連絡しました。お気遣いいただき、締切を少し延ばしていただきました。その節はご迷惑をおかけし申し訳ありません。
それからすぐに花屋さんが花を持ってきてくれました。
納棺は翌日ということで、この日はこれで終わりました。
その後妹が連絡してくれた母の友人が駆けつけてくれ、母に会ってもらった後少し話をして帰られました。母の病状がひどくなってからは全く連絡していなかったようなのですが、近況についてはどこからか聞いていた様子でした。見舞いたかったが直接話を聞いたわけでもないのに会いに行くのも憚られた、と泣いておられました。
私と妹は、たぶん、母は闘病中の姿を友人にあまり見られたくなかったのではないか、と思いました。そうでないなら、まだ意思疎通ができた頃にいくらでも伝える手段があったはずだからです。
母の友人は母の痩せて変わり果てた姿に衝撃を受けていましたが、母が自分のそんな姿を友人に見られたくなく、また友人の驚く姿を見たくなかったのだとすれば、申し訳ないことではありますが、これで良かったのかもしれないとも思いました。
妹と伯母らはリビングやキッチン周りを掃除してくれた後一旦帰宅し、翌朝また来てもらうことになりました。見違えるように綺麗になっていてびっくりしました。せっかく来てもらったのに掃除だけして帰ってもらうというのもどうなのかと思いましたが、やってくれなくなっても困るので、私も父も何も言えませんでした。あ、お礼は言いました。
夜は父が母の隣で眠ることになり、私は自室で眠りました。
翌朝は前日の陰鬱とした気分はほとんどなくなっていました。睡眠は記憶の整理をすると聞いたことがありますが、感情もある程度整理してくれるものなのかな、とぼんやり思いました。
父は夜中に二度トイレに起き、朝四時に起きてからは寝られなかったと言っていました。
翌朝11時ごろ、予定通り棺桶が届き、納棺師の方がいらっしゃいました。
伯母らや妹一家は朝九時ごろから来てくれていて、すでに姪っ子甥っ子が騒がしい状態でした。
前日にお花を届けて下さった方もそうでしたが、棺を届けて下さった方も仕草の端々に故人を尊重する念がにじみ出ていて、私はそれだけで目頭が熱くなりました。ありがとうございます。
納棺師の方も、とても丁重に母を綺麗にしてくれました。姪や甥があれは何かこれは何かと矢継ぎ早に尋ねるのにも、丁寧にお答えいただきました。
着替え、化粧が終わった後、母を棺に納めました。
一番重さがかかるところは私が持ちましたが、とても軽くなっておりました。施設で最後に体重を測ったときでもすでに30キロを切っていましたので、もう20キロ半ばくらいしかなかったと思います。
お棺には、晩年に母が買った着物を入れました。デニム着物というやつで、デニム生地が好きだった母を連れ、隣の隣の市のお店まで行って作ってもらったものです。着物を着て出かける機会もあまりありませんでしたので、2、3度ほどしか袖を通していなかったと思いますが、あちらで存分に着てくれればいいなと思いました。
私の書籍が発売された頃、母はまだ在宅でしたが、すでに自分ではページを捲るのが難しくなっていました。それでも読もうとはしてくれていたようなので、読んでくれていたかもしれません。感想を聞けばよかったのですが、どうにも気恥ずかしく、私から聞くことはありませんでした。言葉は指よりも先に不自由になってしまったので、感想を聞くタイミングがあったとしたら、発売後まもなくのタイミングだけだったと思います。
脱炭素の波か、昨今は火葬も重油ではなく電力で行うようで、燃えやすくても副葬品にはできないものが多くありました。書籍もそのひとつです。
感想はもうもらえないとしても、可能なら続刊やコミックスもあちらで読んでもらえれば、と思いましたが、それは叶わないようです。
この日は妹一家が泊まり、父も自室で眠りました。父はよく眠れたと言っていました。家に人の気配がたくさんあったおかげかもしれません。
翌日、日曜日は通夜の日でした。友引だったので葬儀は月曜日にずらしました。
自宅から母を連れ出すのは17時の予定でしたので、受付をお願いした親戚の方には16時過ぎごろに来ていただけるようお願いをしておりました。そのうちのひとり、父の叔父に当たる方は、なんと13時ごろにはウチに来てくださいました。することも特にないので、礼服のまま、畳に座布団を並べ時間まで寝ておられました。相変わらず凄い人だな、と思いました。
時間になり霊柩車が到着すると、縁側の窓を開放し、そこから母を運び出しました。棺を運ぶ際には、妹の末子である甥も、その小さな手で手伝ってくれました。母は上手く話すことが出来ないようになってからも、騒がしくする孫たちをニコニコと見つめていましたので、彼に一緒に運んでもらえて喜んでいたことだろうと思います。
母を運ぶ霊柩車には父が同乗していきました。霊柩車が出てすぐ、受付をお願いした父の叔父や父の従兄弟もそれぞれの車で出発しました。私も自家用車(マイカーではない方)に自分と父の着替えや身の回りの物を積み、すぐに後を追いました。マイカーを使わなかったのは、ツーシーターで荷物があまり載せられないからで、他意はありません。
地元の道を熟知している私は、誰より遅く出発したにもかかわらず親戚や霊柩車より早く葬儀場に到着しました。だから何だって話ですが。
会場に到着した霊柩車から、キャスターの付いた棺を載せるアレ(名前がわかりません)に母を乗せ、家族で押して会場へと運び込みました。
入り口から見えるロビーには会場に入り切らなかった供花が並べられておりました。家族葬ということで会場が狭く、会場内には親戚からの籠盛、供花しか並べることが出来なかったからです。
ロビーには、私の勤め先からのお花の隣に、カドカワBOOKS編集部様よりいただいた生花も飾ってありました。
私の両親は長らく専業農家として働いてきましたが、若い頃は全く違う才能を磨いていたようでした。
父は学業の成績が良く、とりわけ理系の科目が得意だったそうで、本当は市内随一の進学校に行きたかったようです。しかし父の父に諭され、実家である農家を継ぐため農林高校へと進学を決めたのだそうです。
ただ生前の母に聞いたのですが、諭されたというか「お前の欲しがってた革靴買ってやるから、農林へ行け」と言われて心変わりをしたというのが真実だそうです。まあ、うん。欲しかった靴買ってもらえるんならしょうがないな、と思いました。
一方の母は、母の父からは普通科のお嬢様学校のようなところへ行くことを望まれていたようでした。成績も良く、こちらはとりわけ文系の科目が得意だったそうです。しかし当時から花が好きだった母は、どうしても花を育てる勉強をしたかったようで、農林高校へ進学しました。お茶や書の習い事をしていたようなので、もしかしたらそういう習い事を続けることが条件だったのかもしれません。
その農林高校で父と母は出会い、卒業後一旦はそれぞれの進路に進んだようですが、その後まあ色々あって、私が生まれました。
なのでもし私に才能というものがあるのなら、その理系の能力は父から、文系の能力は母から受け継いだものであろうと思っています。
私は進学で理系を選択し、その後も技術系の業種に就いたので、本業は理系の人間です。両親からは家業を継ぐことについては特に言及されませんでしたので、進路は自由に選ばせてもらいました。
そうして工業系の会社で働く中で、やがて世界中を大混乱させるあのウィルスが蔓延することになり、ちょっと仕事が暇になりました。
そこで以前から興味があった執筆活動をしてみることにし、幸いなことにカドカワBOOKS様の目に止まり、書籍化していただくことになりました。
私の書いた小説が本になる、と話したときに、母がとても喜んでくれたことを覚えています。自身が文系寄りの人間であることは母も自覚していたようでしたので、私が文系の仕事で活躍の場を得たことが嬉しかったのだと思います。私が小さいころ、漫画より小説のような文字の多い本を読ませようとしていたのも、今思えばそういう思いからだったのでしょう。
書籍化の話をしたのは、進行性核上性麻痺と診断される少し前のことでした。
理系として学業を頑張ってきて、その延長線上で職を得た会社からいただいた供花と、ずっと好きだった文系の趣味の、ある意味でその極地とも言える出版社からいただいた供花が並ぶロビーを、母の棺を父と押して横切ったこの瞬間は、きっと生涯忘れることはないと思います。
通夜が始まるまでの短い間に、司会をしてくださるスタッフの方と母の略歴や趣味、人柄についてお話をしました。父と母の馴れ初め(まあ色々あった話の詳細)なども改めて聞くことができ、今更ながらに新鮮な思いがしました。司会の方には私や妹の好物も聞かれました。幼い頃、母が私や妹の好物を作ってくれたことを思い出しました。このときは何とか耐えましたが、どうせ式の最中に司会の方に泣かされるんだろうな、と予感しました。
そうした打ち合わせも終わり、通夜の一般弔問の時間が始まるのを待つばかりになりました。
ところで私には、通夜、葬儀の準備や打ち合わせをしながら、こういう隙間時間には別にやるべきことがありました。
そう、「喪主挨拶」の文章を考え覚えることです。喪主なので。
葬儀社の方と打ち合わせを始めてから、暇を見つけては文章を作り、それを読み、覚える努力をしていました。内容自体はほぼ定型文なのですぐに作成できましたが、なにぶん普段遣いしない言葉ばかりですので、暗記には苦心しました。私は今どきの人間なので、もちろんスマホのメモアプリを使っておりました。
そうすると、自然と目に入るものがあります。
カクヨム様からの通知です。
「〇〇さんが応援コメントを書きました」
「〇〇さんがあなたの作品に★をつけました」
「〇〇さんが」
「〇〇さんが」
「〇〇さんが」
皆様が★を入れてくれるたび、応援コメントを書いてくれるたび、私はメモの文面を覚えながら、その通知を見ていました。
母を亡くし、通夜、葬儀では自分が喪主として務めなければならないというプレッシャーの中で、これらの通知は沈みそうになる私の心を支えてくれました。
この数日間、常よりも多く通知をいただいていたのは、おそらく直前にコミックス第一巻が発売された影響だと思います。
本業の傍ら、小説を書き、それが認められ、世に出させていただいたこと、そしてコミカライズのお話をいただいたこと、そのすべての軌跡が、今の自分を作っているのだと思いました。
それと同時に、ただひとりで書いているだけでは決してこうはならなかっただろうとも思いました。
書いたものを発表し、それを読み評価してくれる方々がいて、だからこそ結果に繋がり、今があるのだと。
そばに居てくれる人だけではなくて、目に見えない人と人との繋がり、そういうものに自分たちは生かされているのだ、と強く感じました。
★、感想、コメント、ありがとうございます。
いつもお読みいただきありがとうございます。
皆様の声や気持ちは、本当に作家を支えてくれているのです。
せっかく母からもらった文系の才能も私ではまだ上手く使いこなすことができず、果たして私の気持ちを十全に表せているかはわかりません。
でもこれだけは、感じたことを今書き残しておかないと、いつか後悔するような気がしましたので、こうして文にし、また皆様への感謝の気持ちを込めて、公開することにいたしました。
なおこのあと通夜開式から初七日法要終了までの後編もあるのですが、それはどっちかというと友人や親戚への感謝のアレなので、備忘録的に書き残しはしますが公開はしない予定です。