私は今書いている『”制裁”:なんちゃらかんちゃら』という作品が嫌いだ。
全く目新しくなく、ただただ日常を綴ったような、アートとして置きにいったような作品を書くということが本当に嫌だ。
これは他の人の創作を中傷しているわけではなく、自分が鑑賞する分には、寧ろこういった多感な時期だったり、不安定な人々の人間ドラマは大好物だが、第一話を書き始めた瞬間から、『こういう話を書くのは最後にしよう』と既に後悔していた。
例えば太宰治の『人間失格』だったり、夏目漱石の『吾輩は猫である』だったりするものが、創りたくないモノのジャンルに入る。この二つの作品も穴が開くほど読み込んだ、大のお気に入りな作品なのだけれど。
”厭”の原動力は純粋な劣等感である。この小説がつまらないという自覚から来るものである。上に挙げた二つの代表的な作品はもとより、ごまんとあるネット小説の一部にも太刀打ちできないというのは事実。
なぜなら今回の小説は私の歴史をふんだんに”そのまま”取り入れているからだ。つまり主人公は”脚色なし”の私と言えよう。情景描写を多用しないことによって、読者にそれぞれの景色を思い浮かばせようと画策しているが、所詮小手先だけの愚策。それは読み返せばわかる。この作品には”私”という登場人物が”桜木浩二”という名前を借りて出演しているのだ。西尾維新や入間人間のようにユーモアがあればよかったが、そうではない人間が書く、脚色なしの凡庸な日常がどうして面白くなるのか。
賛否両論あると思うが、私はそういう作者の顔が見える小説が、小説でなければいけない意味がわからないのだ。この世界には自分を表現できる方法が沢山ある。歌、詩、イラスト、マンガ。……この『”制裁”』という”私の半生”を、小説という媒体に乗せる意味が果たしてあったのだろうか。花井たまを主人公に置いた”エッセイ”ではダメだったのだろうか。
それに、一月ずつイベントをこなしていくような構成も嫌いだ。
まるで作者が創作というものを放棄して、ソートされたアルバムを一枚一枚説明しているだけじゃないか。……クリエイティブをあまりにも軽視している。
できることなら、”読者に追想させ、共感を煽るだけの似非人間ドラマ”より、誰も見たことのない世界を書き続けたかった。
自分自身を主人公に置く作品ではなく、自分が憧れているモノを主人公に置く作品を書き続けたかった。
私はクリエイターとしての矜持からこの作品を絶対に完結させる。
しかしもうこんなくだらない小説は書かないとここに誓う。
この作品は私にとって初めての敗北宣言である。