• SF
  • 詩・童話・その他

ソルト

女性スパイの話なのだが、いきなり北朝鮮から始まり、しかもかなり逆境、という。
女スパイものは破天荒なものを以前見たけど、今回はかなりシリアスだ。前者はハチャメチャぶりに弾けてみた。今回はハチャメチャぶりも大得意のアンジーだけど、派手な口紅に独特な皺のよる唇がなんか冷たいロシア女スパイが妙にはまるような…そんなクールな魅力いっぱいである。

ところで私はよくウィノナライダーとアンジーを間違える。
アンジーの唇はあんなに分厚かったか?ウィノナライダーは分厚い。
どっちの演技もすごく好きだ。

どっちとも、私を一目見たら、エンガチョしてきそうなそんな冷たさも魅力の一つだ。

やはりキモイ事を書きたがる人はキモイ感性を持っているのだ。

まぁ時々、壊れそうな純粋な一面を見せるのだが、それは誰にでも平等に存在するもので、取り立てて言うほどのものでもないのだ。みんな幼少期がある、そういうわけである。


自分の事は置いておいて
何故書こうと思ったかと言うと、ソルトの、コードネームソルトである主人公がもしかしたらロシアのスパイで、ロシアの首相を狙ってるかもしれない辺りまで見たところ、そのまま秋のガラスの町に使ってしまったという。

フィクションと現実は違う。現実には責任が伴う。
しかし現実に起きた出来事が、結局は事なきを得た場合
それでも後で思い起こして大騒ぎをすることがある。
または気にしなければ本当はすぐに終わるはずだった騒動を、引き延ばしてしまう神経質な心、執着心、これは厄介だ。

書いているうちに思う。
やっぱり気にしない人は、一番日々の生活を大切にしてるのではないだろうか。

ならプライドはどうなるのか。

今、自動書記のように思いつくまま書いている。

歴史を自分が体験したかのように捉えていく、という事を、実は本当はそれぞれの歴史の中に自分の意識が含まれていた…
もしくは全体としての1つの感覚器が1人の存在ということなのかもしれない…のように捉えたら

そんな風に思った。



これからは、シラクサの戦い、アラビアのロレンス、そしてコンピューターの発明、他古事記や日本書紀、ホピ族の本等を読んだりして
出来事をミックスして何かをピックアップしていきたいと思う。

ピックアップされたものに特にメッセージ性はないけれど、何か強い念みたいなものが残るような気がする。

コラージュ的な小説。

その中で桃子という存在をどう位置づけるか迷う。桃について調べてみると面白いかもしれない。

別名Wiki小説と言えるかも。


量子力学、電磁気学、ろうそくの科学、なかなか手が出ない。

求められてるか不明なシナリオを書き上げたが、ドラマも面白すぎて、なかなか読書が進まない。


ところでCSIは偶然KADOKAWA提供だった。

「我が闘争」という、いかにも危険思想な本を手に取ってみたら角川春樹の自伝だった。何か笑えた。

でもまぁ、タイトルにそうつけるような出版社なら、何を書いても大丈夫だろう。
と言ってもカクヨムはもうちょっと平和なものの方が受けるかと言うと、やっぱり尖ってないと読まれない。

自分の小説はふにゃふにゃなのだ。
水に溶けたら文字が浮かび上がって意味ありげ、欠けた文字はインクににじんで読めなくなり、慌てて掬いあげるが破れてしまう。
破れたページをプールサイドに並べる、秋の、すっかり藻と枯葉で埋め尽くされた水面、

水面に破れたページがバラバラに浮いていて、掬いあげると落ち葉が混じったりしてくる。

全部を集める事はできなくて、その文章を補完するように僕は小説を書き始めた…


そんな雰囲気もいいな。



ドストエフスキーの白痴を書き写そうと思っている。
πの歴史のシラクサの戦いのシーンも。

色んな哲学書を読み漁りたい。
雰囲気だけでも取り込みたい。


絵も文章も、ある一つの情景を描く場合と、断片を組み合わせて構成する場合がある。

雑誌のコラージュも、重ね方により、何かの像を浮かび上がらせる。

そういうコラージュ的な文章というと、どんな表現方法になるだろう。

文章を文字のように配置、そういうやり方もあるけど、それはあまり求めてなくて、
ある場面とある場面を組み合わせていき、頭のシーンの中で組み立っていくものがコラージュ的であり、しかし一つの世界観として勝手にインプットされていく。

そういうのがいいと思う。

現代アートの文章版みたいな。


1つのメッセージを証明していく、というパターンは時に盲信を引き起こし、不可解な断片の寄せ集めは、時に見えもしなかった事実を幾つも突き付けてくる。

今の自分は盲信。

わざと不可解な断片を自分に突き付けてみる。
全ての出来事は自分が引き起こしてる、とか他人が引き起こしてる…そういう特別な考えもある。
でも逆のパターン。全ての出来事は自分がやろうが他人がやろうが同じ事である。数名人が集まっても、やることは全て決まっているし、想像を超える事はない。

また、別に想像を超える必要はないが、感覚的に既出なものは別の角度から見直さなければ、対象が捉えずらく、リアルな感覚がなくなっていく。

退屈とはそういうものなのかもしれない。


というところで、ゲシュタルト崩壊と、デジャビュ、ジャメビュについて考えられてるその理由を探るのもいいかも。
ひとまずはWiki。そうじゃないと思ったらそうだと思うものを採用すれば、自分の視点という軸で世界が回りだす。


というところで調べてすぐ、書いてみた。
その結果静止網膜像というところから、消失点の存在が気になった。
そして、脳にもそれがあるとすると、音楽や映画の始まりと終わりがわからなかったり、音楽と映画が意図的に流れているものか、そうでないものかが区別がつきにくい可能性も出てくるかもと思った。

人のクローンをつくる過程でそういう問題が出てくるかもしれない。
認識の消失点が積み重なった結果、世界で自分一人という意識になったり、または別の次元を体感したりするのかも…

実際には何事も起こっていないが、主人公の中だけで世界が崩壊してる。
精神疾患の人にあり得るかもしれないけれど
精神病ではない枠組みで、次元が飛ばされたというわけでもなく、認識のせいで世界がそう見える

という描写も面白いかも。

自分なりの出鱈目の書き方で、やってみる。



ところで伝説の荒らしとやらがカクヨムにも出現してるようだ。かつて自分も実名を使われてそれっぽいことを秀逸な文章でやられたが、あまりにも相手が秀逸すぎて私は逃げた。
そして記憶を頼りに書き直している。

自分はいかにも怪しい小説をわざと書いているのであるが、上記のようなことをされ、恐らく自分も何かしてるんじゃないかと踏んで、ならば負けずにフィクションで、と書いたのだが
結果、書いても全然害がないしスッキリするからいいじゃないか。
そう思った。

コメント被害について、かつて一度も自分は被害を受けてなく、被害を受けている人がいる、そういう認識がある。
そもそも自分は被害を受けたら買って出て、面白おかしく戦い続けそうだからわざわざコメント不可にしてる。

恐らく小説が詰まらないからだろうが、自分が何かすると全体のアクセス数が減るという現象は過去偶然にせよ起こったのであるので。

というか私が相手をすると、攻撃は結構止む。そして一気に活力がなくなる。

攻撃者はそのような私の性質は敵のようである…。

つうのは一番が、ストーカーを追いかける癖があるから…そう思う。
ストーカーが一番嫌うのは、自分を枠にはめられること、そして憐れまれたり、更生させようと面倒を見られることのような気がする。

攻撃されたら、愛してるとでも言うと、どうなるのだろうか。
いや、普通は変態だと拡散されたくないのでそれはできぬしやらぬ方が良い。


自分がフォローしてる小説はみんな残らず面白いので、攻撃されても何も効果はないと思う。

攻撃者の小説が面白かったら、その性格が不利に働いてるとしか思えない。

なので攻撃された側の方、懲りずに攻撃されることがどれ程嫌なのか書き続け
攻撃する側の方、仮に態度を改めて攻撃してる相手とうまく攻撃しないで付き合える道があるなら何とか考えた方が良いと思うな。

誰も誰かが消えてなくなれ、とは思ってないのだから。

思ってるとしたら自分で自分を消えろって言ってる。

どうせ、近況ノートを沢山書いたら変だと思われるとか思ってるんだろう。自分の考えを正直に述べる事を躊躇してるのだろう。
そんな常識捨ててしまえ。もっと自分の中だけで遊べるようになれ。

ネット上で攻撃し続ける人間なんて明らかに現実でも嫌われ者だろう。もっと嫌われ者である自分を受け入れて、それを小説にぶつければよい。


他者に攻撃を仕掛けるのは現実でも困ることになる。まぁ、それで金を貰ってるなら別だけど。

でも、他者にやられた嫌な事について攻撃する小説、あくまでもフィクションでやると、こいつ変な人だと思われたとしても実害は全くない。勘違いで書いてもフィクションの場合は自分で読み返し、考え方を修正できる。小説の文章は残しておいて物語のパーツになるし。

…まぁ、頭を冷やした後で謝罪小説でも書く事だ。
謝罪小説は結構面白い。

謝罪小説が書ける段階まで来れば、ありきたりの日常のワンシーンや、他者の文章の癖の新鮮さもわかるくらいになっているだろう。
攻撃じゃない形での人間関係の結び方がわかってくる。

コメント

さんの設定によりコメントは表示されません