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物語が始まらない『安物買いの』

「実はもうあまり寿命が残っていないんです」

 男は寂しげにそう言った。

 どんな小さな願いでも簡単に寿命を差し出す人間がいる。
 10年ほど前からそんな噂が悪魔界で流れていた。

 聞けば、季節外れの果物が欲しいだとか、目の前の建物に移動させてくれだとか、どれもこれも金や体力で解決できるような願いばかりだ。
 それでいて、悪魔が請求する寿命は素直に渡すというのだから笑ってしまう。
 我々に対価の縛りが無ければ、男はとっくの昔に寿命を使い果たしていただろう。

 そんな愚かな人間に、今頭を下げている私はどれほど愚かだろうか。

「寿命が無い?」

「そうなんです。この間来てもらった悪魔に聞いたら、あと1年ほどだそうで」

 そんなに大きな契約はしていないんですけどね、と男は眉尻を下げた。

 馬鹿が。罵りの言葉を口内へ転がした。
 仔細を聞けば、確かに男は大きな契約をしていなかった。男が悪魔との取引で使った寿命は1回あたり、1日~1週間程度。1番大きいものでも半年ほどだ。

 ただ、ただ頻度が多い。初めての契約はおよそ20年前。そこから多い時には日に数回契約している。某密林サイトでもそんな頻度で利用しないだろ。どんな神経してんだよ。

「分かった。なら、その1年。私にくれないだろうか。その代わり、お前の望みはなんでも叶えると約束する」

 男は困ったように笑った。

「わたしの望みは残りの時間を家族と過ごすことだけです。・・・・・・もうすぐ娘が結婚するんです。それまでは死ねませんよ」

 私はどっと崩れ落ちた。人間の前で膝をつくなど、悪魔にはあるまじき行為だ。
 本来であれば、ここから誘惑を掻き立て、誘導し人間から寿命を頂くのが悪魔というものだろう。私にはそれができない。それだけの力が無いからこそ、馬鹿みたいに頭を下げているんだ。

「あの、あまり遅いと妻が心配するので、すみません」

 ぺこりと頭を下げ去っていく男を私は引き留めることができなかった。

 私はもうすぐ消えるだろう。
 あの男のせいで消えるのだ。ああ腹が立つ。これで最期だ。あの男に呪いをくれてやろう。


 お前は愛する者を看取るまで死ねない身体となるだろう。

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