マラソンでいえば後半の折り返しを過ぎ、赤いパイロンが見えなくなったくらいの歳になると、小説を読むたびにその表面的な内容ではなく、作者の思考や作者自身の境遇と照らし合せて考えてしまうようになります。先日、書斎にある観音開きの本棚を開け、「ごんぎつね」で有名な新美南吉の作品を読んだのですが、彼の幸福とは云えぬ境遇を知っているので、その作品の簡明にして深層を覗かせるような世界を見て、思わずこの回のタイトルになっている吉田松陰の言葉が浮かんでしまったというわけです。
小説を書くときの動機というのは、極論すると光ある未来への渇望か闇を抜け出したい願望のどちらかの二つなんだと思うんですね。現実の生き様や思考を基に書く強さなのか、あるいは苛烈な現実逃避からの優しさなのかと言い換えてもいいかもしれません。人の魂の置き所が奈辺にあるのか、そしてそれをそのまま表現するのか、あるいは別物として物語を作り上げていくのか。文学というのは常に虚と実を彷徨うことなんだと、新美を読んで再確認するのでした。
ではわたしは何を書いているのかというと、恐らくですが、今ある自分というものを文字にしただけなんだと思うんですね。苛烈な現況から目を逸らしたい為の自傷行為ではなく、自分ってこの程度だよね、というある意味開き直った自信のような謎のポジティブさだけで文章を書いているのだと思います。
しかしながら、一見この堂々たる気持ちを前にした獅子が如き威勢は本物であるのかと云われると、自信がないのもまた事実です。もしかしたら、新美のような不幸を背負ったことがない弱さを隠すための「はったり」なのかもしれませんし、自身が自覚している惰弱さを隠すための方便なのかもしれません。
いずれにしても、物を書くという行為はそれを著した人間の業からは離れることはできないものだと思います。どんなに虚構やイマジナリーを書いたとしても、作者の思考や理念はどこか蜘蛛の糸のような細いながらも強靭な線で作品と繋がっているので、完璧なる創造というのはけして存在しないのだと、わたしは考えているのでした。