――噓つきは泥棒の始まり。
小さな頃に、親からその様に言われたことはないですか? 親から言われてなくても、嘘をついた友達を非難するときの言葉として耳にしたことがあるかもしれません。嘘はいけません。確かにその通りです。嘘は、混乱を招きますし、バレた時には自身の信用を貶めます。
端から人を貶める為の嘘はいけませんが、嘘をつかざるを得ない状況というものも存在します。例えば、よくあるパターンで、重篤な病気にかかった患者がいたとして、医者が本人に伝える前にその方の家族に病状を伝えます。家族は、その真実を本人に伝えきれずに、励ます意味もあって、本当の事を伝えない。つまり、嘘を言ったことになります。
嘘みたいに酷くはないのですが、建て前という処世術があります。例えば、PTAなり自治会なり、何らかのコミュニティーを維持する組織があったとして、その役員を頼まれたとします。建て前では、コミュニティーの存在意義に賛同して役員を受けたとします。しかし、本音では、そんな面倒なことはやりたくない……みたいな事を思っていた。
子供というのは、素直です。見たもの聞いたものを素直に信じます。例えば、僕の子供たちは、小学校に上がる手前まで、サンタクロースを信じていました。というより、信じさせていました。親である僕は、子供に嘘をついていました。子供にサンタクロースへの手紙を書かせて、寝静まると子供の枕元にプレゼントを置きます。毎年、「良い子にしないとプレゼントを貰えないよ」と、子供に言っていたのを憶えています。
そうした子供が成長していくと、段々と大人が見せる本音と建て前が分かってきます。学校に行き、社会生活に参画していくと、さらに加速して大人の欺瞞が見えてくるようになります。でも、一昔前なら、そのスピードは緩かった。純真だった子供の不満が爆発するのは14歳前後でまとまっていたし、そこから精神的な成長が追いつくまでの十分な時間も用意されていたように思います。
ところが、今の子供は小さな頃からネット社会に溶け込んでいます。本音と建て前を使えるようになる時間が用意されないまま、社会の様々な側面を小さな頃から知ることが出来ます。インターネットを開き検索を掛ければ、知りたい情報を引き出すことは容易です。更には、知りたい情報以外の様々な情報も押し売りのように次々と表示されます。
そうした情報の困ったさんの一つに、エロ漫画等の広告があります。そのつもりはなくても、あの手の広告ってどこにでも現れます。公然と開けっぴろげで、エロが解放されているのです。そうした対策もありますが、焼け石に水なような……。
僕が子供の頃って、エロはもっと奥ゆかしくて禁断の世界でした。学校帰りに落ちているエロ本を見つけて、友達と一緒になって興奮したことを憶えています。親に見つからないように夜中にテレビを点けました。11PMのあのオープニングのメロディーを聞くだけで興奮していたことを憶えています。エロに関しての情報が少ないので、想像で補うしかない。それがまた、興奮を誘うのですが……。話が脱線しました。
エロの広告表示にしても、周りの大人は性的なことを隠そうとしているのに、ネットを開けば赤裸々な性的な情報を簡単に閲覧することが出来る。そんなことが繰り返されると、子供だって疲れるに決まっています。
――人間は、自分が考える通りに行動するときが、一番気持ちが良い。
なに当たり前の事を言っているんだ、と突っ込まれそうです。僕が言いたいのは、心と行動の乖離が、人間にストレスを与えるということです。心と行動の乖離は、様々なパターンがあります。仕事に疲れて鬱になる話があります。この場合は、企業が求める要求と、社員の能力のバランスが取れていない。企業がブラックで物理的に無理なことを要求している場合もありますし、社員の能力が全く足らない場合もあります。でも、どちらの場合でも共通するのは、心と行動の乖離です。
本音だけで生きることが出来たら、どんなに幸せなことでしょう。しかし、この矛盾に満ちた社会では、それはなかなか難しい。時には建て前を述べて、要領よく生きていかないと、周りと衝突してしまう。建て前は、生きていく上での知恵だったりします。ただ、この建て前は、先程も述べてきましたが、緩い嘘です。そこには心と行動の乖離が生じます。ストレスが生じます。
現代の子供たちは、溢れまくる情報の中で、心の成長が追い付かないまま、その矛盾の嵐をまともに受け止めています。本音と建て前の違いが分からずに、迷っているのではないかと思っています。学級崩壊や不登校、子供の鬱。そうした問題の根っ子には、そうした社会的矛盾が子供を苦しめているのではないかと考えています。
子供の話を中心にしてきましたが、大人も同じです。多様性の話を冒頭にしましたが、現代は様々な意見が乱立している時代です。またそれらの情報には、本音と建て前がごちゃ混ぜになっています。発信者がついつい本音で語ってしまうと、言葉尻を取られて炎上騒ぎになったりとか。建て前を述べて正論を吐いていた本人が、全く反対の行動をとっていたとか。情報の真偽も様々で、本当にカオスです。人類が、情報化社会という新しいツールを手に入れて、まだそれほど時間は経っていません。仕方がないのかもしれませんが、あんまり酷いと耳を塞ぎたくなります。そんな中で俄かに湧いて出てきた言葉が「コンプライアンス」です。
――コンプライアンスって建て前ですよね?
炎上してしまいそうなことを僕は言いました。でも、皆さんも、本音ではそう思っているんじゃないんですか? 社会そのものが、本音と建て前の扱いに困ってしまいストレスを抱えているように、僕には見えます。
――どうすれば良いのか?
個人の対応であれば「そうした社会とは、距離を置く」という方法があります。子供に与えたスマホにフィルターを掛ける考え方と一緒ですね。でも、いつまでも距離を置いているわけにはいきません。でないと、社会的な生活が出来ません。現在、僕の息子は不登校を続行しています。社会と距離を置いています。この間、中学校の恩師に、そんな僕の息子の状況について話したことがあります。先生の言葉は意外でした。
――不登校の子供の方が、正常化かもしれんけどな。
えっ! 先生がそれを言いますか。先生は、教育の現場から既に引退しています。教育の現場にいた時は、様々な矛盾に苛まれていたのかもしれません。次回は、そんな僕の息子の事を、少し話したいと思います。