先般、第165回直木賞が発表され、佐藤究先生の「テスカトリポカ」と澤田瞳子先生の「星落ちて、なお」が見事受賞されました。
佐藤先生は同郷であり、また澤田先生は我が師父と仰ぐ葉室先生の友人で、両先生の受賞は大変嬉しく思います。
さて、今回僕がエッセイを書こうと思ったのは、直木賞受賞のスピーチで佐藤先生の内容が、ずっと僕の中でしこりのように残り、さてどうしたものかと思ったからで。
大した悩みではないのかもしれませんが、お暇な方は読んでくださいませ。
佐藤先生は、スピーチの中でこのようにお話しをされました。
「この作品は暴力っていうのが、先ほどの質問にもあったんですけど、どの程度の、それは文学なのかっていう問い掛け、まさしくそのとおりなんですけど、今回これ、麻薬戦争っていうものを下敷きにしてまして、実際に僕自身がメキシコで起きている麻薬戦争を調べたり、それこそ実際、取材に行った友人の危険地帯ジャーナリストの丸山ゴンザレスくんに話を聞いたりすると、もうここで描いた以上のことが起きているんですよね。僕自身も今回、初めて、ほかの作品でもバイオレンスのシーンは描いてはきたんですけど、執筆中に初めて夢にうなされる経験をしまして、こんなことしても意味があるのかな、やめようかなとも思ったんですけれども、麻薬戦争、あるいは資本主義、リアリズムっていうシステムの中で、人々から搾取をするためにこういうことが本当に起きているんだっていうのを、これはたとえフィクションという形でも、描くことなしには、もう見ることさえもないので。やはり知ることは、例えばちょっとした出来心で、麻薬を買ってみようかとかいうことへの、僕は別に教育者でもなんでもないので、体に悪いから駄目ですよって僕らが言ってもしょうがないので、こういう連中がこのシステムの背後にはいて、君の払ったちょっとした好奇心のお金はこういうことに流れているんだよっていうのを知ることができれば、やっぱり抑止力っていうか、社会に対する、こういうクライムノベルを書きながらも、役割になるかなと思ってやりました」
「テスカトリポカ」という作品に、佐藤先生はこのようなメッセージや役割、を込めておられます。
翻って自分はどうなのだろうか?
僕は舞台こそ江戸時代ながら、現代の麻薬戦争や人身売買、貧困や差別問題、また宗教犯罪や反社会勢力の問題を反映させたノワール時代小説を書いています。
書いていながらも、その作品の社会的意義ななんだろうか?と、僕は考えずにはいられませんでした。
そして、暫く考えても浮かんではきません。
社会に訴えるのであれば、舞台は江戸時代でない方がいいに決まっています。
それでも、江戸時代でダークサイドを書いている。その理由は、「その席が空いている」以外に存在せず、社会的な意義は無いのです。
勿論、小説はエンタメです。社会的意義など考えず、徹頭徹尾エンタメを追及してもいいとは思います。
また作品の意義は、読者がそれぞれで見出すものであるとも理解しています。
ですが執筆に際して読み込む資料や映像の中には、当然ながらリアルな被害者の声があり、書いている中に蘇ってくる事もあります。
そして問い掛けるのです。
「社会問題を、意義も無いエンタメとして消費していいのだろうか?」
これからも、僕はノワール小説を書いていきます。
とびっきりの、闇の深淵を覗くような、めくるめく犯罪世界を書いていきます。
ですが、この命題は今後も僕に圧し掛かってくる事でしょう。
要は、僕が腹をくくっていないって事もあると思いますが。