小説に限らず、あらゆる創作活動において言えるのは、少なくとも自分の中にある”何か”を出力する営みであるということなのではないか。であるならば、自分の中にあるものとは何かというと、外部からの入力即ち環境の影響なのではないのか。
電磁気学の話で、マクスウェル方程式というものが存在していて、その中には湧き出しが存在しないというものがある。ある空間から何かが出てくるならば、必ず同じだけの量のものがその空間の中に向けて入っているということ。虚無から何かが発生することはなくて、何かが出力されるならばそれに対応するだけの入力が存在するということ。
ただ、創作活動においては必ずしも入力と出力の保存則が成り立つとも限らないと思われ、入力が少なくても大量に出力することはできるし、出力せずとも無限に入力することもできる。前者は所謂缶詰による創作活動で、創作に手を出さない人間なんかはみんな後者に当て嵌まる。それでも、少なくとも、虚無から何かが発生することはないと思っていて、一切の人生経験を経ずに存在する人間というのは現実的に考えて存在しない。あらゆる創作は何かの入力を基とする出力に過ぎないのではないか。
例えば、あらゆるオリジナル小説投稿サイトに溢れているであろう異世界系のモノ。その方向を選んだ理由は色々あれど、それでも何かの異世界系の作品を参考として見ているはずだし、つまりは異世界系という入力の結果としてみんな似たような異世界系を出力しているに過ぎない。ナーロッパなど言われているように、みんな似通った設定ばかりなのがその証左だろう。異世界系、転生系に限らない。現実世界だけど何某の異能力を持っていて~、宇宙で戦うナントカ~、キリスト教の解釈から構想を膨らませた~。たぶん、全部何かのアニメや漫画を見た、聞いた結果の出力に過ぎない。ちなみに、僕は物理学を学んでいて、だからマクスウェル方程式という単語を引っ張ってきた。全ては何かの入力の結果の出力に過ぎない。
長くなったのでそろそろまとめると、外部の影響を受けた結果に類されない創作なんて存在しないもんだと思っている。だから、創作物が何かに似ているのは仕方ないし、基にしたものが同じなら同じものが出力されたって仕方ないだろう。創作者は似てしまうことを恐れずに自由に創作していいし、読者や視聴者はそれを理由に文句を付けることはできない。仕方ないんだから。
そのとき重要なのは小手先のテクニックになる。全く同じ世界観、全く同じ設定だってそれを小説に落とし込んだときの文章は千差万別だろう。読みやすい文章と読みづらい文章が発生するだろう。そこが差別化点で、設定と物語が凡庸でも読みやすい文章なら”王道”みたいに言われて持て囃される。逆に、良く作り込まれた面白い設定だって、読みづらくて引き込まれづらい文章なら駄作だろう。
もちろん、パクリは良くないし、独自の設定や仕組みを考える努力はできるならしたほうがいい。でも、いくら自分の中のモノを捏ね繰り回してみて、いくら特殊な設定を思いついたとて、世界人口は2022年に80億人を突破したらしい。絶対にどこかの誰かがまだ思いついていないなんて保障はない。オンリーワンである保障はない。君は80億分の1を引き当てる自信はあるのか?あるなら素晴らしいことだと思う。その自己肯定感を失くさないように大事にしよう。心というのは一度壊れたら戻らないから。
「まとめる」と言ってから長々と書き連ねてしまった。そろそろ終わる。
僕はあるインプットをして、それの良いと思った点を自作品に取り込もうと思っている。でも、これじゃありきたりじゃないか、他の作品と同じじゃないか、なんて悩んでいた。それで、創作という観点での入力に対する出力がどうあるべきかちょっと考えていた。結局、作品の差別化点という観点で独自性が持つ意味はそんなにないんじゃないか、なんて結論してしまった。だから、独自性がなくたって僕は書くことにした。この文章はとても長い言い訳だったというわけだ。
ここまで読んでくれた人がもし存在するのなら、この文章は読みやすかっただろうか。であるならば、僕がこれから書く小説も、読みやすい文章の良い小説になることだろう。