小説について

 僕は2016年、今のこの近況ノートを書いている一年程前から小説というものを書き始めました。
 それは物語を作るという世界を構築するに等しい行為を自分で手掛けてみたいという月並みの理由から始まったものですが、空想を編み妄想を文章化することの快感は情熱の原動力として今も僕を支えてくれています。

 僕には小説という形態で物語を作るにあたって一つの目標があります。
 それは読者の心をえぐり取りそこに新たな価値観を埋め込むことができる物語を作ることです。
 僕の読書遍歴は専ら成人してから始まったものが殆どで少年期では映画、漫画に囲まれてその価値観を育んできました。しかしその中でもある作者の小説だけは何度も読み返し表紙が擦り切れるまで愛読し続けていました。
 それは星新一のショートショートの作品集でした。孫悟空が戦う世界や湘南バスケ部の青春でいっぱいだった幼い脳にはユーモアと皮肉が満載の物語達は降り注ぐ落雷の如く衝撃を与え続け、真っすぐにしか物事を考えられない少年の価値観に良くも悪くも大きな歪みを加えたのでした。
 そして小学校高学年の頃だったと思いますが、たまたま父がレンタルショップで借りてきた映画のビデオを見て更なる衝撃を受けました。
 その映画のタイトルは『マッドシティ』というもので、サムという男(ジョン・トラボルタ)が首切りへの抗議に雇用主のところへ向かうのですが、脅すために持ってきた銃の暴発により警察に包囲され人質を取った強盗事件として進退窮まってしまう、という状況をレポーターであるマックスの(ダスティン・ホフマン)視点から描いた映画です。
 ここから先はネタバレを書いてしまうのですが、過熱する報道と真偽も定かにならぬ情報の氾濫によりサムは追いつめられてしまい自殺してしまいます。どうにかサムを救おうとしたマックスは自殺したサムの絵を撮ろうとするメディアの大渦の中で「俺達がサムを殺したんだ!」と叫び続けるシーンで映画は終わります。
 これを見た荒川少年の衝撃は凄まじいものでした。勧善懲悪の少年漫画や悪人を銃でぶっ飛ばし続けるハリウッド映画を見続けてきた少年にとってこの社会派映画から伝わる情報と感情はあまりにも異質で大きく、その胸に楔を突き刺したような大きな傷と価値感が与えられました。
 だってトラボルタ演じるサムは間抜けで頭は悪いかもしれないけれど悪人でもない哀れな男でしかないんですよ? それがまさか最後に吹き飛ぶなんて子供にはとても想像のつかないラストでした。白熱するメディアバイアスについての批判の意味が込められた映画なのですが、そんな社会は映画がまさに僕の価値観の一部を抉り取り、新たな価値観を植え付けたのです。
 そんな価値観は三〇を超える今になっても生き続け、未だメディアというもの、ひいてはあらゆるものに疑り深い人格構成の一端を担っています。そんな性格は僕の人生の舵取りに大きな影響を与えました。あの映画は僕の人生を大きく変えてしまったのです。
 これが僕の目指す物語の在り方です。僕はかつて純真な少年期にやられた価値観の改変を自分の物語で誰かにも味合わせてやりたいのです。それは遠回しな自己肯定なのかもしれませんがその欲求に嘘はありません。
 僕の作品はまだ表現も稚拙で読むに耐えないものかもしれません。それでも読者の心を打ちのめそうと作品に込められた僕の哲学と感情は揺るぎないものだと自信を持っています。
 今公開している作品では心を抉ることはできなかったかもしれません。価値観を示すことができなかったのかもしれません。それでも次の、その次の作品で誰かの心を抉れるよう精進していきたいと思います。


               2016.8.19  荒川 悠衛門 

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