働いたら負けだと本気で思っている。
それは水城和也《みずきかずや》がブラック企業で七年間勤めた結果、たどり着いた考えだった。
来る日も来る日も厄介上司の愚痴を受け、お局《つぼね》事務の機嫌を伺う日々。
朝から晩まで働き詰めで、心身ともに疲弊していた。
満員電車に揺られ、会社に到着すると押しつけられる仕事の山。
終わりの見えないタスクに追われて、昼食すらまともにとれないことが多かった。
仕事外ではいかに睡眠時間を捻出することだけを考え、趣味なんてものを作る余裕もない。
……つまらない。なんとつまらない人生なんだろうか。
三週間ぶりの休みだというのに朝から気分が悪く、何もすることができなかった。
「飯……食わなきゃ。何もないな」
冷蔵庫を漁るも出てくるのは賞味期限が過ぎたカピカピの惣菜と、缶コーヒーのみ。
買い物に出ようと立ち上がったところで激しい頭痛に襲われた。
あまりの痛みに耐えきれず、その場に崩れ落ちる。
「……久しぶりの休みだったんだけどな」
薄れゆく意識の中で呟く。
どうしようもない倦怠感と共に体が重くなり、ゆっくりと瞼を閉じた。
今まで感じたことがないくらい体が軽い。
「勇者様がお目覚めのようです」
「おお! 素晴らしい! 勇者候補だのなんだとほざきよる隣国の奴らも、これで大人しくなるだろう」
聞き覚えのない声に瞼をゆっくり開けると、豪奢な服を見に纏った男女がこちらを見ながら何やら盛り上がっていた。
女性の方は金髪の碧眼で、日本人離れした美貌をしている。
金の刺繍が施された真っ白いローブは、現代文化では異質な装いだが、コスプレだと考えると、とてもよく似合っていた。
ナイスだオタク文化。オタクに幸あれ。
隣に立つ年配の男性はこれみよがしに王冠をつけており、胸には拳大の光る宝石が、指にはいくつもの指輪がついている。
紫紺のローブには何色もの色を使った刺繍が施されており、その華美さは素人のコスプレというよりも、プロの演劇で使われる衣装のような印象を受けた。
成り金趣味の国王を表現すればこうなるのであろうか?
下品……実に下品である。
二十代くらいの金髪グラマラス美女と、四十代くらいのダンディーな黒髪男。
男の方も日本人離れした彫りの深い顔立ちだが、両者とも日本語が上手だった。
日本に住んで長いのだろう。
細かなアクセントも全く気にならず、まるで日本人が喋っているようだが……なんだろうこの違和感は?
「エリオット様! 久方ぶりの現世でございますが、ご気分はいかがでございましょう?」
金髪美女が嬉しそうに話しかけてくるが、俺の名前は|水城和也《みずきかずや》だ。
純日本人に向かって変なあだ名をつけないでもらいたい。
「どうやら困惑しているようだ。エリオット殿は常世の世界から戻ってきたばかりだからの。無理もあるまい」
厨二病になるなとまでは言わないが、他人に迷惑をかけているのなら止めるのが常識ではないだろうか?
知人が初対面の相手に妄想じみた設定の押し付けをしているのに、ダンディーな男は顎髭を撫でながら悪ノリしている。
ただでさえ今朝は気分が悪かったのに――
「あの……つかぬことをお聞きしますが、ここはどこでしょうか?」
自分が横になっていたのは、長年の酷使でぺちゃんこになった敷布団ではなく、使うのも恐れ多いほどの豪華なベッドだった。
部屋の広さも俺が住んでいた部屋の二倍はあり、古ぼけたアパートで七年一人暮らしをしている俺にとって、一生縁のないような部屋である。
「ここは貴方様のために用意された一室でございます。不満がありましたらいつでも部屋を変えますので、|私《わたくし》めにご申し付けください」
「其方が望むのならば複数部屋を用意しても構わないぞ」
恭しく答える金髪美女と、上機嫌に笑いながら話すダンディ男。
……違う。そうじゃないんだ。
「ここは病院、じゃないですよね? もしかして俺、拉致されてたりするのかなぁ〜なんて……嘘です! 冗談です!」
長年の社畜経験によりダンディ男の苛つきを察知。
ブラック企業で生き残るために得た力――事なかれ主義を発動して自らの発言を訂正した。
「すごい立派な部屋ですけど、俺を助けてくれたんでしょうか?」
「戦乱の世であった暗黒時代に覇を唱えたお主にとって、常世での休息は地獄であろう? だから我らが相応の戦いの場を用意しようと思ってな」
何だこいつ。話が全然噛み合わないぞ……。
嬉しそうに語る髭を無視して金髪美女に目を向ける。
彼女は俺の気持ちを察したのか、にっこりと微笑んで。
「ここは貴方様がお救いになられた土地に繁栄した五大国家のうちの一つ、リューテンガンドの王城でございます」
……もうやだこいつら。
――――――――――――――
結論から言うと、俺は異世界に転生したらしい。
倒れる前の苦しみは相当だと思ったが、まさか死んでしまうとは思わなかった。
享年二十五歳。空虚な人生だったなと自分でも思う。
あの後説明を受けてわかったことだが、偉そうな話し方の髭はこの国の国王で、一緒にいた女は国に一人しかいない聖女という立場にあるらしい。
そして俺の魂は聖女の力によって復活した、英雄王と呼ばれている肉体に入りこんでしまったようだ。
不法侵入|甚《はなは》だしい所業だと自分でも思うが、これは事故なので英雄王とやらはどうか俺を恨まないでほしい。
部屋に置かれてある小さな手鏡を手に取ると、青髪金目の美青年が鏡の中に映った。
俺の感覚では二十手前くらいだろうか?
目鼻立ちは整っており、柔らかな印象を受けるイケメンだ。
身長も高く、見た目もいい。
転生するならこれ以上ないほどの優良物件だとは思うが、俺の心は社畜時代と変わらず、どんよりと落ち込んでいた。
ひとり部屋でため息を吐いていると、扉がノックされる。
「エリオット様、お時間です」
「もう? 早くないか? もうちょっとゆっくりしても……」
「十分休まれたでしょう? 今日は楽しい楽しい戦闘訓練ですよ」
その言葉にがっくりと肩を落とすと、諦めたように扉の鍵を開ける。
出迎えるのは金髪聖女――セシリア・ルクセーヌで毎朝訓練に連れ出すために俺を迎えにきていた。
勇者の体に転生して二週間。訓練漬けの毎日だった。
行くのが嫌になり、少し体調が悪いと告げればお得意の回復魔法で治療を施され、本当余計なお世話……実に甲斐甲斐しく俺をサポートしてくれる。
「ちなみに聞くけど、訓練はどのくらいある感じ?」
「初めはエルグさんのところと模擬戦をして、次は訓練用に捕らえた魔獣との戦闘訓練……その後は訓練場で体力トレーニングを……」
「――この国の勉強とかはしなくていいんだろうか? 最初に伝えたと思うけど記憶喪失なんだけど……」
セシリアたちには俺が異世界から転生した存在だとは伝えずに、前世の記憶がバッサリと消えていると伝えている。
正直に伝えて、俺を殺してもう一度復活の儀式をやり直そう、なんて案が出たら困るし、何よりそれが一番都合がよかったからだ。
セシリアは俺の提案を受けて、少し悩むような仕草をすると。
「……必要になれば教えますから」
満面の笑みでそう答えた。