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「屍喰い蝶の島」の設定集【ネタバレ有り】

「屍喰い蝶の島」整理

舞台)太平洋上の高知県宿毛市の沖合にある島。足摺岬より45㎞、旧片島港から南西へ約30㎞の太平洋に浮かぶ離島・有人島。
志々岐島(しじきじま。高知県宿毛市の沖合、沖の島の近隣、昔は鵜来島と同様に流刑島と言われている)の人口74人(宿毛市沖の島町志々岐)(人口の三分の一が本土からのIターン、もしくはUターン)。
堆積岩より成る約一億年前の白亜紀地層の島で断崖絶壁が多い。碧の洞窟(白亜層の断崖にある海食洞窟・奥に中世夜須亜紀から新生代古第三紀にかけて形成された新しい地層で四万十帯にあり、堆積地層で形成された鍾乳洞である。海側の洞窟と神部山下層にある志々岐鍾乳洞が繋がっている為、おそらく貫通鍾乳洞と考えられる。文献によると陸からの入り口はあるそうだが、位置が定かではない。島の北側)。
足摺宇和海国立公園。点在する磯。磯釣り・マリンスポーツの島として人気。
砂浜(海水浴場)は大浦集落(島民45人)周辺のみ、他和田津集落(島民29人)側は岩礁や断崖(展望台へ続く道がある)。
島の北西寄りには標高217mの神部山(かんべやま(頭山・こうべやま)・和田津側から登る展望台あり)。
島の半外周(海岸線長約11km・大浦から和田津までの約4km)に県道。車が通れない道が島外周を囲っている(自転車などの車両は通られる(サイクリングコース・神部山遊歩道))。
北側(足摺宇和海国立公園側)に和田津集落と碧の洞窟、南側(太平洋側)に大浦集落。碧の洞窟にへは船か、スキューバダイビングやカヌーで行くしかない。
週2回出張診療所で診療がある。救急はヘリで宿毛市へ。個人病院は沖の島。

西に沖の島、北に鵜来島。
日に宿毛市片島から2便の市営定期船「すくも」。それ以外の時間帯は、民間渡船会社で沖の島間を送迎、また磯や離島への送迎。海路で片島から沖の島経由で大浦まで約80分。大浦から和田津まで約10分。
徒歩で大浦から和田津間は30分。途中に碧の洞窟の上に出る展望台。神部山の遊歩道は和田津側と大浦側にある。
民宿(渡船会社)は大浦港(5/日高渡船・大浦渡船・神部渡船・沢見渡船・島田渡船)や和田津港(3/神部渡船(民宿かんべ)・アクアブルー(アクアマリン)・阿部渡船(お食事処まきちゃん))に8軒ある。民宿は渡船会社が営んでいる。併設としてマリンスポーツ・観光などを経営している。交野の屋敷は浜の少ない和田津。

島の宝100景に、「石垣・石段とともにある暮らし」名義で選定。(沖の島、鵜来島、志々岐島)



① 碧の洞窟の祠。
a. 伝説・伝承)【遊覧船のガイド】引き潮の時に現れる洞窟に空ろ舟が流れ着き、舟の蓋を開けると中には美しい女人が横たわっていた。やがて、その女人の体が赤い蝶に変じて、洞窟に留まった。島民は摩訶不思議な事と思い、女人を海の女神として祠に祀った。その祠が洞窟の奥にある。赤い蝶はその女神の神使。島の昔話に掲載。

b. 表向きの真相)【祠の縁起】太平洋側から迷い込んだ鯨(いさな:カツオクジラ)が洞窟に打ち上げられて、死んだ鯨の腹の中から女人が出てきた(空ろ舟に乗ってきた女人)。女人を海神の巫女として、祠を祀った。

c. 隠された真相)【民宿のおばあちゃんの昔話】平安以前から祠はあったらしい。祭神は不明、神使は赤い蝶。生け贄の娘を巫女として祠のある洞穴に閉じ込めて神に捧げた。あまりいい神ではない。明治の時代にはそぐわないものだから、神部山にある鍾乳洞への穴を塞いだ。神仏習合によって元々の神が忘れられた。江戸時代に神仏分離した。本来の神:不明。神仏分離後の神:蛭子神。(江戸時代まで不漁の年におこなわれた。生け贄を無理矢理溺れ死にさせて、その死体を放置していると赤い蝶が現れて、神が戻ってきて豊漁がもたらされると信じられた)

② ひるこの話。
a. 伝説・伝承)【漁師】ひるこさんを祀る前、和田津の惣領とその跡取りが海で溺れ死んだ。そのため、ひるこさんを祀ることにした。洞窟にひるこさん(蛭子命・水死体)が流れ着くため、そこに祠があると言われている。断崖の上には胴塚がある。胴塚の名前の由来はひるこさんの胴が流れ着くから。首塚があるかは不明。漁師の言い伝え。1181年伝承。

b. 表向きの真相)【島民の暗黙の悪意】ひるこさん(漂着神・寄り神・寄り鯨・流れ鯨・座礁鯨・カツオクジラ)が祀られている祠。洞窟に、海で溺れた人の死体が流れ込む。荒い潮と岩肌によって首が取れてしまうため、首無しの水死体になる。水死体のことをひるこさんと言い、水死体が上がると、豊漁になると言われている。島民は内心喜んでいる。でも決して口に出さない暗黙の了解。

c. 隠された真相)【元漁師・アクアマリン経営オーナーの父70歳以上(50年以上前、交野家が漁師を廃業したあと)】③bと混在。養和の飢饉。鯨が流れ着いて飢饉を乗り切った。実際に、死体が流れ着くことで豊漁になる。

③ 平家落人の話
a. 伝説・伝承)【碧の洞窟遊覧船ガイド】約840年前(治承5年、養和元年(1181年)・養和の飢饉(1181年〜1183年))、鯨(いさな・カツオクジラ)が流れ着いたおかげで、不漁の時に生き延びることができた。そのために祠は鯨塚(島の人は昔から胴塚と呼ぶが、地図や資料には鯨塚と記載)と呼ばれる。

b. 表向きの真相)【養和の飢饉】840年前(治承5年、養和元年(1181年)・平安時代・治承の乱(6年間続いた)・壇ノ浦の戦い(寿永2年くらい・1183年)・養和の飢饉(1181年〜1183年))、不漁で飢饉があった。しかし、鯨(いさな・カツオクジラ)が洞窟に打ち上げられて、島民は餓死を免れた。鯨を食べたこと、報奨を得たことなど含めて。

c. 隠された真相)【わだつ日記】840年前・(寿永2年くらい・1183年)伊勢平氏の落人2人と姫が舟で島に流れつく。伊勢平氏の家紋は蝶。最初は手厚くもてなしたが、1185年、報償が出ると聞いて落人を騙し殺した。島民は落人の首級を源氏側に渡し報償を得て、豊かになる。姫は惣領の跡取りの妾にされる。その後赤子が生まれたが、跡取り息子は姫と恋仲にだった絵仏師の若者を締め殺しの木に吊り、殺す。絵仏師の死体を見せられて気が触れる。姫と絵仏師の死体を洞窟に置き去りにして、満潮時に溺れ死にさせる。その後、漁に出た船が沈み、惣領と跡取り2人が犠牲となり、首なし死体が碧の洞窟内に浮かんだ。神部山の麓に惣領の屋敷がある。その井戸に、姫の首が上がった。海水の混じった井戸は使い物にならなくなった。それ以降、毎年島民が1人溺れ死ぬ。(本来なら㉚に浮かぶ)祟りを恐れた島民は、神部山(頭山)に首塚を作り、姫の供養をした。何故かその首塚が交野家の井戸の傍らにある。

④ 御先様の話。
a. 伝説・伝承)【地元の民宿のおばあちゃん】御先様。①a②a③aと全く関係ないふうに伝えられている。和田津集落のみの風習「御先様が海から来る日やき家から一歩も出られん」

b. 表向きの真相)【島民の暗黙の悪意】御先様。(現在は七人ミサキ・妖怪と思われている。悪いことしたら御先様に海に牽かれるよ)もともと海難で死んだ人の亡霊を指す。志々岐島では島民に殺された、⑥娘とご落胤を先頭に2人の近習と祟られて死んだ漁師2人の6人。決まった日(3月22日)に島に上がって来て、村を練り歩く。出くわすと死んでしまう。毎年一人、人が死んでいる。御先様が出る日は誰も外に出てはいけない。家から出れば、海で水死体となって翌日見つかる。

c. 隠された真相)【和田津集落の島民(暗黙の行事)】⑤cの変形。裏切った島民2人と近習2人とご落胤と娘の怨霊が海から上がるとされる日の夜、御先様が海から上がるので外を出歩いてはいけない。出歩けば「海に牽かれて」溺れ死に、洞窟に流れ着く。昔から3月22日は家に閉じこもり外を出歩かない風習があった。近年に入り島民は島を観光地化することで、外の人間が訪れる様にした。

⑤ ご落胤、偽史の話。
a. 伝説・伝承)【偽史、蝶の家紋】昔、平清盛のご落胤が志々岐島に流刑にあった。志々岐島の島民はその子孫であると伝えられている。家紋が蝶紋。和田津集落の島民達は、自分たちが平家の子孫と信じている。

b. 表向きの真相)【蝶紋の由縁。偽史】流刑に処された平清盛のご落胤が財宝を隠し持っていると聞いた島民が、ご落胤を殺してしまう。ご落胤は島の娘と深い仲になっており、子供をもうけた。その子孫が今の志々岐島の島民。そのご落胤の家紋が蝶紋。和田津集落の島民が自分たちを平家の子孫と信じている理由。

c. 隠された真相)【ご落胤伝説。偽史】②c③cの変形。偽史・平清盛のご落胤(伊勢平氏側)が権力争い(年代不明・おそらく養和元年・1181年くらい)の犠牲になって流刑(流れ鯨・寄り神と言い換えられる)に処されて最初は幡多、後に志々岐島に幽閉される。島の娘がご落胤の世話係として提供されるも、ご落胤が財宝を持っている(飢饉から救済される)と勘違いした島民に騙されて近習とともに殺されてしまう。娘は子供とともに生かされたが、ご落胤の妾として扱われて、後に呪詛を吐きながら入水する。そのあと、次々と島民が2人も溺れ死んだ(舟が沈む)ため、ご落胤と娘の鎮魂のために祠を建てる。ご落胤を漂着神・寄り鯨と見なしたため鯨塚を立てた。ご落胤の家紋が蝶紋だったため、後に島民の家紋は蝶紋となる。娘の子の所在は不明。③c⑤cが混在している。

⑥ ⑤c御先様は「ご落胤と娘、その近習と島民」とされている。

⑦ 【始めは志々岐島に伝わる、御先様の伝承を調べていた・志々岐神社】①cは③cを変形させた伝説。⑯が真相。だから、③cの怨霊が存在する。その怨霊が④cになった。1185年/元歴2年の出来事を1181年/養和元年に起きたと変えた。七人ミサキではないので海難で死んだ人間はその列に加わらない。

⑧ 【宿毛市史より引用・平家の都落ち】⑤bこういうわけで、平氏の勢力圏にあった四国にも、源氏に敗れた平氏の武士達が、身を隠すために逃げて来たのも自然であったかもしれない。もちろん、源氏の警戒もあったと思われるので、彼等は比較的、人目につかない山間部や、海岸地域に身を隠して、細々と暮していたと思われる。
宿毛の伝説によると、このころ、橋上の京法や還住藪に、平家の落人が来て住み、彼等が、村を開発したという話が伝わっている。また、小筑紫の都賀川にも、平氏が逃げて来たといわれ、その名残りをとどめる落人の墓が今もある。
ちなみに、南予地方の山間部を調べてみても、平家谷という地名があり、その付近の村には、今も「平家」という珍しい姓が多くあるのは與味深い。この村では、平家の先祖を祭っている神社もある。
これらの村には、証拠になるものは残っていないようだが、土地の人のなかには、代々の言い伝えにより、平家の子孫だと信じている人もいるという。
また、沖の島の弘瀬部落についても次のような伝説がある。
鎌倉時代の元久2年ごろ(1205)、幕府の重臣であった交野大助の孫の交野新介則久が、罪に問われて、北条義時のために、鎌倉を追放されることになった。交野新介は、一族郎党を連れて伊予から沖の島に渡り、この島の弘瀬浦に住み着くようになったというのである。一族郎党はこの旅の途中、関所や番人の目を欺くために山伏や町人、稚児、女郎などに変装して大そう難儀なめに遭ったということで、この島に住む子孫達が、最近まで盆踊りにこれらの扮装をして踊ることを慣例としていた。そして、この踊りを鎌倉踊りと称していたのである。

⑨ 【ご落胤伝説】⑤abcは偽史。平清盛のご落胤など存在せず、土佐国に流刑されたとする史実はなかった。あくまで鯨の漂着物。それで飢饉を食いつないだ。

⑩ 【蛭子神由緒】①a今は昔、死にしいさなが海をたゆたへり。その腹を割きしところ、中より女いでき。女を蛭子神の巫にて祠に祀ると、赤きてふうちいでき。このてふを神使とす。赤きてふは死にし屍を食いたるゆえ、名をしくひてふ、もしくはしじきてふと名付けき。

⑪ 【志々岐神社由緒】①c海よりおとなふ綿津見毘売命を祀りて、綿津見毘売命より生じしシシキチョウを神使とし、それをもちて志々岐神社と名付けき。

⑫ 【かんべのおばあちゃん】神部山(頭山)に首塚を作った。祠と同じくらい歴史が古い。

⑬ 【志々岐島縁起】③c死にし鯨を食ひてしのげば、屍食島と名付けき。のちの志々岐島なり。

⑭ 【今昔物語集 第26巻】③c今昔物語集 巻第廿六 土佐国下衆行住不知島語(こと) 第十一
「土佐国幡多郡に住ける下衆有けり」から始まり、「妹兄島より西に知らぬ島とて有りとぞ、人語りし」などと言う記述がある。平安〜室町時代頃から、志々岐島は流刑地で、幡多に流された高貴な人がさらに沖合の島に流刑された。と幡多郡誌(流刑地説)にあるが、鵜来島の間違いではないかと言われている。

⑮ 【わだつ日記】交野家にあった日記が淨願寺に保管されていた。3月23日に淨願寺の住職から夜須に電話。あの後、蔵の蔵書を探したところ、わだつ日記と鍾乳洞内部の古地図が出てきた。自分は読めないが、あなたは読めると思って。見に来るかと言われて、夜須は一も二もなく大浦の淨願寺へ赴く。

⑯ 【わだつ日記】③c寿永2年/1183年に平家の落人が姫を連れて志々岐島に落ち延びてきた。元歴2年/1185年、落人の首を源氏側(夜須行宗)に持って行けば、報奨金がもらえるため、落ち延びた落人の首を取り、落人の胴を海に放る。胴は洞窟内に上がる。姫を妾にしたが、姫は宗順と碧の洞窟の鍾乳洞で逢瀬を重ねて子を孕む。惣領は子を産ませたあと、大浦の寺に滞在していた宗順を締め殺しの木に吊して殺した。産んだ赤ん坊も碧の洞窟の断崖から落として殺す。それを見て狂った姫を碧の洞窟内に監禁し、溺れ死にさせた。後に穴を封じ、碧の洞窟側からしか中に入れなくした。しかし、その後、人死にが続いたため、慰霊碑(鯨塚)を作った。

⑰ 【九相図・生首の掛け軸】平頼盛の庶子・平頼盛女(てふ)。絵仏師・賴源の流れを汲む弟子・宗順(そうじゅん)

⑱ 【淨願寺】③bと⑤bの偽史の資料。九相図・大浦集落の寺に赤い蝶が群がる高貴な女人のかなり古い九相図が奉納されている。九相図は鎌倉時代から江戸時代にかけて書かれた仏教絵画。小野小町や檀林皇后が題材にされたと言われている。煩悩の対象になる美女も死んでしまえばこのように骨となると説いた。(島の九相図・赤い蝶が群がる美女の九相図は絵仏師(姫と恋仲の宗順)が平頼盛女てふをモデルにして書いたもの。今ではその由来も分からないが九相図の裏に寿永2年/1183年とてふと書かれてあるのを見る。絵仏師の筆名・宗順から辿る。最後まで落人の姫がモデルと言うことも明かされないが、夜須は悟る)。

⑲ 【てふと宗順】④c伊勢平氏を追ってきた源氏(夜須)側の武者が、残党の首に賞金を掛けた。貧しい島民は島で生活を始めた平氏落人を殺して首が腐るので首級の絵を描かせて源氏(夜須)側に渡す。てふは網元惣領の妾にされて、宗順は殺される。

⑳ 【志々岐神社】④b志々岐神社には同じように2人の落ち武者の首の掛け軸が残されている。それを描いたのも同じ絵仏師。その掛け軸の年号は故意に消されていたため、いつのことかは分からない。

21 【志々岐神社の神主】㉑昔(35年前)のオカルトテレビ番組で、目が動く落ち武者の生首の絵が放映され、話題になった。実際は蝿が止まって黒目が動いたように見えただけという解釈がされているが事実は定かでない。その首の絵を所有していたのは、志々岐島の住民。孫が蔵から見つけて面夜須半分にテレビに投書したことが始まり。ロケ班が志々岐島に赴き、録画撮影した。それをよく記憶しているのは、当時16歳(51歳)だった、志々岐島の神社の神主。志々岐神社。祭神は綿津見毘女命。蝶紋。

22 【志々岐神社・碧の洞窟の祠】②bc志々岐神社の奥宮は実は碧の洞窟内の祠。元は飢饉の際にカツオクジラの死体が洞窟近くに漂着し、その肉を食ったため。屍を喰うと言う意味でしじきじまと呼ばれ、定着する。胴塚は本来鯨塚と呼ばれる。胴塚と呼ぶのは島民のみ。Googleマップには鯨塚と記載してある。

23 【引用:宿毛市史】調の内、土佐国の名産品としては鰹や押鮎(鮎の塩漬け)が指定されていた。土佐国司として任命されたのは、治承・寿永の乱(源平合戦)の頃までの五世紀弱の間に106名に及んでいるが、時代が下るにつれて、他の国の国司の例に漏れず、遥任の発生など、利権に与って蓄財に走る事例が定着した。要するに、任命されたものが当地におらず、惣領が代わりに治めて、税を取り立てていた。

24 【碧の洞窟】洞窟内は鍾乳洞、海と繋がっている。満潮時、鳥居は笠木の部分しか出ていない。洞窟内も水没。祠も水没。干潮時、鳥居と洞窟の水位が下がり、全容が見え、洞窟内にも入ることが出来る。小潮。鍾乳洞に続く碧の洞窟内に入れる水位になる。

25 【ひるこ】②abc祠の神は漂着神で、勇魚(鯨)で、ずいぶん昔からそうだったが、祭神不明で、後付けされた。島民は豊漁の生け贄のためにてふの子を捧げ、漂着神である神への鎮魂とした。志々岐神社の縁起をごまかした。元々水死体はごくたまに洞窟内に上がっていたが、島民自身が3月22日に御先様が牽くと言うことにしてしまった。それを続けていたせいで、22日に(島民の思いが強く影響した。)必ず水死体が上がるようになった。ますます御先様の迷信が確固たるものになっていった。自分たちが死ぬのを恐れて、観光客が島民の身代わりに死ねばいいという考え方。それを嫌う島民もいる。神主や民宿のおばあちゃんなどはそういう感じ。アクアマリンのオーナーはそもそも信じてない。

26 【5年前の蝶の出現】揚羽は自ら胴塚のある断崖の穴(鍾乳洞の穴)に落ちて死ぬ。穴に引っかかったまま発見されず。夜須は胴塚に行った際に穴を見つけ、そこにちぎれた服の古い切れ端と桜貝のような生爪らしきものを見つける。それが揚羽のものとは想像もしていない。山側の入り口は明治時代に入って、石で封じた。現在出入り出来るのは海側のみ。天井は崩れて所々穴が開いている。揚羽はそのうちの一つに落とされて殺された。揚羽の死体からシジキチョウが生じて、遺体が回収されなかったため、長い期間、シジキチョウが目撃された

27 【シジキチョウ】シジキチョウは昔はシシキチョウと言われていたが、後世、死体を喰う蝶というイメージで屍食蝶と名称が変化した。シジキチョウは志々岐島で死んで腐った死体にのみ生じる蝶。なので、時間が経った死体の周りを飛ぶ。志々岐島以外で見ることはない珍しい蝶。よって、生態が捕獲された例も無し。ゴイシシジミの亜種と思われるのは肉食の蝶らしいから。ただし、ゴイシシジミは幼虫の時にアブラムシを食べて育つ。シジキチョウは羽が濃い赤で、黒い碁石状の斑紋がある。

28 【90歳のおばあちゃん】揚羽は夜須の前に出る。名前は言わないので、夜須は少女の名前を知らない。鯨塚の真下には鍾乳洞があって、その中にシジキチョウがいるのだと話す。入り口が、山の中にあるとも話してくれる。夜須はその話を民宿のおばあちゃんに尋ねるが、言い伝えでは穴があったが、良くないものがいるから封じられたと話した。

29 【90歳のおばあちゃん】首の浮いていた場所は鍾乳洞の神部山側入り口付近。干潮になったら消えて、満潮になったら水が満ちる。実際には淡水と海水が混じった水。幻の池。今では言い伝えのみだが、どこにあるかは誰も知らない。塩害があるので周囲に樹木はない。

30 【夜須と交野】夜須のことを交野は執着していた。交野は夜須のために研究の成果を譲った。けれど夜須は交野を受け入れなかった。それが原因で交野は病み、故郷の志々岐島に帰った。交野は夜須を内心憎みつつ愛していて、自分の島の蝶のことを話す。ほぼ幻の蝶ではあったけれど、言えば必ず来るのは分かっていたので呼んだ。復縁を願ったが、断られて交野は首を吊る。その後も交野は夜須とともにいる。夜須は交野が死んだことに気付いてない。交野とともに蝶を探す。復縁を請われるのがうざくなって、夜須は民宿に移る。最終的に胴塚の近くに開いている鍾乳洞の穴に引きずり込まれて夜須は死ぬ。

年/月/日(曜日) 満潮 干潮
時刻 潮位 時刻 潮位 時刻 潮位 時刻 潮位 時刻 潮位 時刻 潮位 時刻 潮位 時刻 潮位
2022/03/20(日)   7:27 190 19:47 191 * * * * 1:25 16 13:38 16 * * * *
2022/03/21(月)   7:52 182 20:26 177 * * * * 1:56 25 14:11 5 * * * *
2022/03/22(火)   8:16 172 21:11 158 * * * * 2:28 38 14:47 1 * * * *
2022/03/23(水)   8:40 159 22:16 137 * * * * 3:00 56 15:31 4 * * * *
2022/03/24(木)   9:06 146 * * * * * * 3:39 76 16:36 12 * * * *

便/港 片島 母島 弘瀬 大浦 和田津 鵜来島
第1便 07:00発 直航→ 07:50直航→ 07:50着発
09:35着 ←8:45 ←8:30 ←8:15 ←8:05
第2便 14:30発 15:20→ 15:35→ 15:50→ 16:05→ 16:20着発
17:10着 ←直航 ←直航16:20

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