『僕が僕であった日々は遠ざかり、だんだんと僕は僕でなくなってゆく(以下“僕僕”と略記)』の解釈については、江戸川台さんのレビューが僕の意図した大筋を的確に捉えているのですが、江戸川台さんがご指摘なさった通り、『僕僕』はラストのシーンの解釈がわかりづらいところがあります。これはひとえに僕の筆力不足であり、というのは、『僕僕』の全体的なバランスを崩さずに、僕の意図を端的に伝える描写・あるいはその構成を、僕が思いつくことができなかったのです。そこで、これは本来野暮なことではありますが、僕の作品の中で注目していただいた作品であること・またカクヨム甲子園応募作品であり審査員の方に参考にしていただくことを考えて、ラストシーンの僕の意図をお伝えしようと思います。
僕がラストシーンで意図したことは、江戸川台さんのレビューにおいては「大穴」とされていた「概念としての『僕』が死に、新しい『僕』がその場から立ち去った」、というものです。このシーンが最後に来ることにより、タイトルである『僕が僕であった日々は遠ざかり、だんだんと僕は僕でなくなってゆく』に帰結するようなストーリーに仕上げたかったのです。江戸川台さんはレビューにおいて「遠ざかる」という言葉遣いに注目なさっていましたが、文中でも「遠ざかる」と表現されているシーンがあって、それがラストシーンの「『ビッグチャレンジ』のおっさん」に対して使われています。つまり、概念としての「僕」が死んだことにより、「『ビッグチャレンジ』のおっさん」に対する「僕」の態度が変化したということです。
蛇足ですが、最後の主人公の心情語は、「概念としての「僕」が死んだ」ということに主人公が自覚的であることを示しています。しかし、自覚的でありながらも、人の心というのは「死ぬ」「生きる」のようにゼロ-イチのデジタルなものではなく、曖昧なものです。その曖昧さが「それも僕だったよ」と主人公に言わせているのです。また、少し大きな視点で言うと、そんなふうにいちいち自分のことをドラマチックに決めつけてみては、それもなんか違うよなあと揺れている主人公に、僕は「高校生」「青春」「思春期」「未成年」のようなものを見出しています。