聖書における「666」は、一般には
「獣(けもの)の数字(Numerus Bestiae)」として知られています。
終末。
反キリスト。
世界の敵。
多くの創作や都市伝説において、この数字は
「破壊の王」や「悪魔の王」の証として扱われてきました。
映画『オーメン』に登場するダミアンは、その象徴的存在と言えるでしょう。
しかし、『ヨハネの黙示録(Apocalypsis Ioannis)』の原典を注意深く読み解くと、
666とは「怪物そのもの」を直接指す数字ではありません。
それはむしろ、
「神の領域に到達してしまった存在」に付与される、
終末の識別刻印(Signum Ultimum)
として描かれています。
つまり、獣(けもの)とは、
世界の秩序・生命の循環・支配構造そのものを書き換えるために顕現する、
「神の審判装置(Instrumentum Iudicii)」そのものなのです。
そして、この獣を人類の前に「神の代理人」として登場させ、
人々にそれを受け入れさせる役割を担う者が、
黙示録に記される
「偽預言者(Pseudopropheta)」
です。
それは、
奇跡を演出し、
救済を語り、
秩序を与え、
「正しさ」の仮面を被って現れる存在です。
人類は、
滅びを選ばされているという自覚すら持たぬまま、
気づいたときにはすでに、
「神よりも神らしいもの」を
信仰してしまったその後に、立たされることになります。
ここから先が、
聖書解釈とオカルト、そして都市伝説が交差する領域です。
一部の神秘学や終末思想において、
666に宿る“獣”は、
サタンすらも道具として用いる「上位存在」
として語られることがあります。
「世界そのものを終わらせる権限を持つ存在」
――すなわち、
「破壊そのものを執行する『最終兵器(Ultima Arma)』」
として扱われるのです。
それは、
神の意思を、
「破壊」というかたちで実現してしまう存在。
それこそが、
都市伝説やオカルト文化において語られてきた
666の、最も忌まわしく、最もものものしい正体です。
世界が「終わる側」に回った瞬間に、
その世界に正式に刻まれる
「終末の署名(Sigillum Apocalypsis)」
なのです。
■2『幽世のリリン』における「666」を宿す者・北藤翔太
北藤翔太は、現時点では
優しく、少し臆病で、それでも守りたいものを確かに胸に抱いた――
ごく普通の高校生です。
しかし、『幽世のリリン』の世界において、
「666」を宿すということは、
世界の構造そのものに「干渉できてしまう器」に選ばれた存在
であることを示しています。
物語では翔太はすでに、
“喰われる側”ではなく、
“喰らう側へと転じる可能性を秘めた存在”として配置されています。
その対象こそが――
「太陽神ラー」です。
太陽とは、
秩序、生命、循環、再生、王権、そして世界の中心。
神話学的に見れば、太陽神とは
「世界そのものの運行を支える主軸」に等しい存在です。
それを「喰らう」という行為は、
世界というシステムそのものを、内側から奪い取る行為です。
昼と夜の境界。
生と死の区切り。
神と人との上下関係。
それらすべてが、
内部から静かに書き換えられていくという意味を持ちます。
ここで重要なのは、
翔太が「神になりたい者」でも、
「神を殺したい者」でもない、という点です。
彼はただ、
「神に届いてしまう」位置に立たされている者なのです。
それは、神話的に言えば
「神が行う最終審判――すなわち『審判の日(Dies Irae)』の執行装置」
に等しい役割です。
翔太は、まだ何者でもありません。
しかし、もし彼が何かを選び間違えたとき、
その「たったひとつの選択」で、
「すべての破壊」を成立してしまう可能性を秘めています。
もしこの世界が終わるとしたら、
それは「誰かを守りたいと願った少年の選択の末」なのかもしれません。
あるいは、その逆……?
つまり――
物語構造的には、
主人公でありながら、「ラスボスにもなり得る存在」。
今日の悪魔メモは、ここまでにしておきます。
あとは、どうか物語の中で。
https://kakuyomu.jp/works/822139838714206414