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序説5 「脇坂記」にみる関ヶ原の戦い 更に大幅加筆し更新しました

以下のように更新しました。

八月朔日(ついたち)   家康御判
            脇坂淡路守殿
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 さてこの8月1日付の書状が、脇坂安治本人ではなく嫡男安元(16歳)宛になっていることをご記憶願いたい。当時京都からの書簡が上杉討伐のため下野の国にいる家康に届くのに7日を要したから、安元の手紙は8月1日から7日遡る、7月23日以前に発送されたことになる。また、石田三成等によって「内府違いの条々」が発布されて豊臣家遠征軍(官軍)のはずの家康が、秀吉の遺訓に背く「賊軍」とされたのは7月17日のことである。

 徳川家康率いる上杉討伐軍は、第一陣として東北勢(伊達政宗、最上義光、佐竹義宣、南部利直ら)が6月16日に京都を発し、続いて徳川家康が直轄する東海勢の第二陣(浅野幸長、中村一氏、池田輝政、田中吉政、福島正則、山之内一豊ら)が6月18日に出発した。四国や九州の大名は必ずしも従軍の義務はなかったのだが、自発的に与力する第三陣(黒田長政、加藤嘉明、藤堂高虎、蜂須賀至鎮など)はやる気満々の前のめりでこれに続いた。しかし本国からの距離があるので、近江を通過するのは7月初めになってからだ。

 7月17日、安元を含む機内近国と西国の中小大名は近江の街道を列をなして三々五々行軍中だった。ところがこの日突然愛知川に関所が設けられて、軍を返すよう大阪城からの命令が届いた。諸将は回軍せざるを得なかった。

 よって安治から山岡道阿彌に向けて書状が発送されたのは、7月17日から23日の7日間のいずれかの日に絞られる。

 さて徳川家康が下野の国小山で評定を開き、諸将に石田三成の挙兵を告げたのは7月25日である。豊臣恩顧の大名は一人残らず家康についた。しかし23日の時点では福島正則も山之内一豊も、黒田長政も加藤嘉明も藤堂高虎も、まだ東西どちらに着くか明らかにしていない。よって「豊臣恩顧の大名」が「家康に内応した」のは、「脇坂安元」が一番乗りだったことになる。

 ここでいくつかの疑問が浮かぶ。
(1)この重大な遠征の脇坂勢の指揮を、なぜ安治は自分自身ではなく、初陣の安元16歳に任せたのか。そもそも安治はこの時どこにいたのか。京都か。大阪か。それとも水軍の舟の上か。

(2)石田三成のクーデターが成功し、「上方(かみがた)忩劇(そうげき=非常にあわただしいこと)」という事件が起こったまさにその時、三成と家康とどちらに着くかという重大な判断を、16歳の安元が父に相談なくできるだろうか。相談してから書状を練ったとすれば、真田家の下野・犬伏の談合と同じく、自家の存続のため親子それぞれが東西両軍に別れる「ふたまた」の策をとった可能性はないだろうか。

(3)安元の手紙が家康本人ではなく、山岡道阿彌に当てられているのは何故か。山岡道阿彌は後に江戸幕府開始後、家康直属の諜報組織「甲賀百人組」を開設することになるが、このころすでに諜報部隊として活動していたのだろうか。だとすると道阿彌が甥である脇坂家の家老・山岡右近を介して、安治を蚊帳の外において若い安元を籠絡して、家康の陣営に引きずり込んだ、ということはないのだろうか。

 これらの疑問はのちに本編で明らかにされるだろう。私たちの知らない本当の戦いは、関ヶ原の靄の向こうに隠れているのだ。今は「脇坂記」の先を急ごう。
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