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序説5 「脇坂記」にみる関ヶ原の戦い に大幅加筆し更新しました

「脇坂記」の読み下しに挟んで、解説を加えました。脇阪家が家康に内応の書簡を書いたのは、石田三成が決起してから遅くとも7日以内とわかります。
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此時(このとき)。大権現淡路守(あわじのかみ)(16歳)ニ御書ヲクダシ給フ。

 山岡道阿彌(やまおかどうあみが)所へ之(ところへの)書状彼見(みられ)懇意之(こんいの)趣(おもむき)執着(しゅうちゃくに)候。

就(すなわち)上方(かみがた)忩劇(そうげき=非常にあわただしいこと)従路次(ろじにしたがうを)被罷(やめられ)歸之由(かえるのよし)尤(もっともに)候(そうろう)。彌(いよいよ)父子(ふし)有相談(そうだんありて)堅固之(けんごの)手置(ておき=常に心を用いて取り扱って置くこと)肝要候(かんようにそうろう)。

近日(きんじつ)令上洛之條(じょうらくせしむるのじょう)於様子者(おようすは)可御心易候(こころやすかるべくそうろう)。尚(なお)城(しろ)織部佐(おりべのすけ)( 注: マンガ「へうげもの」の古田織部介(おりべのすけ) 重然 (しげなり)
)可申候條(もうすべくそうろうじょう)令忠略 (ちゅうりゃくせしめ) 恐々謹言(きょうきょうきんげん)。
   八月朔日(ついたち)   家康御判
            脇坂淡路守殿
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 さてこの8月1日付の書状が、脇坂安治本人ではなく嫡男安元(16歳)宛になっていることにご注目頂きたい。当時京都からの書簡が下野にいる家康に届くのに7日を要したから、安元の手紙は8月1日から7日遡る7月23日以前に発送されている。また、石田三成等によって、近江の国愛知川に関所が設けられ、徳川家康の上杉討伐軍に参加するため街道を進軍中だった大名たちに、帰阪の命令が出されたのは7月17日のことである。よって安治から山岡道阿彌に向けて書状が発送されたのは、7月17日から23日の7日間のいずれかの日に絞られる。

 ここでいくつかの疑問が浮かぶ。
(1)この重大な遠征の脇坂勢の指揮を、なぜ安治は自分自身ではなく、初陣の安元16歳に任せたのか。そもそも安治はこの時どこにいたのか。京都か。大阪か。それとも水軍の舟の上か。
(2)石田三成のクーデターが成功し、「上方(かみがた)忩劇(そうげき=非常にあわただしいこと)」という事件が起こったまさにその時、三成と家康とどちらに着くかという重大な判断を、16歳の安元が父に相談なくできるだろうか。相談してから書状を練ったとすれば、真田家の下野・犬伏の談合と同じく、自家の存続のため親子それぞれが東西両軍に別れる「ふたまた」の策をとった可能性はないだろうか。
(3)安元の手紙が家康本人ではなく、山岡道阿彌に当てられているのは何故か。山岡道阿彌は後に江戸幕府開始後、家康直属の諜報組織「甲賀百人組」を開設することになるが、このころすでに諜報部隊として活動していたのだろうか。だとすると道阿彌が甥である脇坂家の家老・山岡右近を介して、安治を蚊帳の外において若い安元をうまく籠絡して、家康の陣営に引き込んだということはないのだろうか。

 これらの疑問はのちに本編で明らかにされるだろう。今は「脇坂記」の先を急ごう。

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