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劉封(リュウホウ)の出自について

学園戦記三国志
https://kakuyomu.jp/works/1177354054890213389
最新66話で登場したリュウホウ。そのモデルは劉備の養子となった劉封です。まんまですね。
本編ではリュウヒョウ(劉表)のイトコのリュウバン(劉磐)(史実では従子)の弟という設定になってます。
さて、その劉封、正史ではどうなっているのかというと、羅侯の寇氏の子、長沙の劉氏の甥と書いてある。
長沙に羅県という場所があり、後漢の光武帝の功臣に寇恂という人がおり、そこに封じられた末裔の一族が劉封の実家である(長沙に封じられた寇氏は記録になく、その家について諸説あるがここでは掘り下げない)。
また長沙の劉氏は、前漢の景帝の子が長沙王に任じられ、後漢の時廃止された。その末裔だろう。
長沙は、その太守張羨が198年に荊州牧劉表と争い、200年頃に平定された。長沙が劉表勢力に組み込まれるのはこれ以降である。
劉表は自分に逆らう人間にわりと容赦なく、張羨の配下だった桓階は行方をくらましている。
またこれにより長沙は、劉表と対立していた孫権との最前線の一つとなり、劉表の従子劉磐の軍が長沙の攸県に駐屯している。
そういった不安な情勢の中、寇氏や長沙劉氏は劉表の保護下に入ったのではないだろうか。
そしてまもなく劉備が劉表のもとに逃げ込み、手厚くもてなされた。
寇氏や長沙劉氏が身の安全のために劉表に歓迎されている(少なくとも傍目にはそう見える)劉備に接近しようとするのは考えられることだ。
また、劉備のその後を知っていると違和感があるが、当時の劉備は傭兵集団で、劉封を養子に迎えた年は不明だが、この頃劉備は40歳ほど、そろそろ後継者を考え出したのだろう。劉封は武芸に優れ(演義だと地味だが)、また血統も良い。
ここに利害が一致し、劉備と寇氏や長沙劉氏が結びつき、劉封の養子縁組みとなったのだろう。
彼が養子になったのは207年に劉備の子劉禅が生まれる前だが(演義だと順番が逆)、仮に生まれた後でもこの状況は変わらないのではないか。
劉禅が成人するまでに劉備が生きている保証はないし、仮に生きていても傭兵集団の長が務まるような人物に育つ保証はない。
劉備がこのまま傭兵集団の長として生涯を終えたら、劉氏の家を劉禅が、軍団を劉封が継ぐ未来もあったかもしれない。まあ、そんな未来はなかったのだが。
本編に話を戻すが、この辺の事情がややこしい上に、劉封の親や伯父(叔父?)の名前もわからん、記録もないから掘り下げられないなどの理由から、長沙に縁がある劉磐にその役を引き継いでもらい、彼の弟として登場させた。おかげで正史に記述が少ない劉磐の出番がめっちゃ増えた。

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