某会長が辞任して後任を指名して云々かんぬんという話が賑わしてるが、まあ、そんな話とは関係ない話。
自分は学園戦記三国志
https://kakuyomu.jp/works/1177354054890213389という話を連載しているので(いたって自然な宣伝)、三国志の話をするが、後漢末の群雄割拠の時代、各群雄勢力ではその後継者をめぐってたびたび紛糾することとなる。
例えば陶謙の話。
陶謙「もうわしの命も長くない」
劉備「なんと気弱なことを申される」
陶謙「そこでお願いがあるんじゃ」
劉備「なんでござるか」
陶謙「この徐州の太守になってくだされ」
劉備「えっ」
陶謙「わしの息子も他の武将達ともすでに相談ずみなんじゃ」
以上は横山光輝『三国志』の陶謙が劉備に徐州が譲る時の会話である。
この会話からは、本来なら陶謙の息子が徐州牧(会話では太守になっているが牧が正しい。太守は郡の長官で牧は州の長官)を継ぐところを劉備に託そうとしていることが読み取れる。他の三国志の物語でも、劉備が陶謙の息子に遠慮して徐州牧の地位を遠慮する場面がある。
でも考えたら徐州牧は公職なので、任命権は当然朝廷にある。現職の牧が死去したら、一時的に仕事を他の者が引き継いで行うことはあるかもしれないが、後任は当然朝廷から派遣された者ということになる。
別に現職の息子だからといって継ぐ資格があるわけではない。
まあ、この頃の群雄はほぼ独立状態で、袁紹や劉表もかってに役職を譲ったりしてるが、本来はダメだよね、これ。
ちなみに親子の話だと、涼州牧だった韋端が朝廷に招聘され、太僕(大臣のひとつ)に昇進すると、代わりにその子の韋康が涼州刺史(州の監察官)として派遣された。当時の人はこれを名誉なことだとほめそやしたそうで、やはりそうそうあることではなかったようだ。