これは、創作論なんて大層なものではありません。
一人のサラリーマンが、思いつきで書き始めた小説に関する、
単なる内省と気づきのメモです。
あくまで、私個人の体験談です。
ただ、もし私と同じように物語を綴りながら悩んでいる人がいるなら――
この記録が、ほんの少しでもその人の助けになればと思います。
私は、いわゆる「小説の書き方」というものを学んだことがありません。
プロットを練って、シーンを設計して、思いつくままにキーボードを叩く。
それが『Cycle of the Dead』の始まりでした。
「何を舐めたことを」と思われるかもしれません。
そしてそれは、ごもっともな指摘だと思います。
ただ、残業帰りの電車の中で思いついたネタを形にせずにはいられなかった。
だから、頭より先に指が動いたんです。
けれど、書き上がった原稿を読み返したとき、どうにも違和感がありました。
これは“小説”なのか?
他の人の作品を読んでも、やはり違う。
良し悪しではなく、構造そのものが異なる感覚。
まるで、映像や出来事の断片を並べているような――そんな違和感でした。
AIに分析させてみたところ、どのモデルも、
どんなプロンプトでも口を揃えて言いました。
「これは小説というより、映像台本に近いです。」
その言葉を聞いて、腑に落ちました。
私がやっていたのは、文章を書くことではなく、映画を撮ることだったのです。
気づいてみれば、私の原点はいつもスクリーンの中にありました。
こんなことを書くと怒られるかもしれませんが、
若い頃の私は、映画監督か、ゲームクリエイターになりたかった。
スピルバーグの活劇に心を掴まれ、
キャメロンの構造美に唸り、
ノーランのストーリーテリングに衝撃を受けた。
そして何より、小島秀夫監督。
『メタルギア』や『ポリスノーツ』で、
“ゲームというフィールドに映画を持ち込む”挑戦を続けたあの姿に、憧れた。
私は無意識のうちに、同じことを小説でやろうとしていたのだと思う。
氏のファンを長年続ける中で、
ゲーム業界では「ディレクター」と呼ばれるのが一般的であるにも関わらず、
彼が「監督」という肩書を自ら使い続けた意味を、今になってようやく理解しました。
それは、既存のフィールドに異なる文法を持ち込む意思表明だったのだと思います。
人間は、これまで取り込んできたものを咀嚼して吐き出す管でしかない。
AIという強力なツールが登場した今でも、それは変わらない。
私の頭の中には、ゲーム機と映画館しかない。
だから、そこから吐き出されるアウトプットは、
必然的にシネマティックなものに収斂していく。
AIの指摘をきっかけに、私はもう一つの事実に気づきました。
――同じ表現でも、映画と小説では評価が180度違う。
小説では「彼は怒りを炎のように燃やした」と書けば感情描写になるが、
映画で同じセリフを言わせたら、説明過剰で白けてしまう。
映画には“Show, Don’t Tell”(語るな、見せろ)という美学、お作法があるのです。
そのお作法に従えば、
「その背中はわずかに震えており、拳は固く結ばれていた」
という描写が生まれる。
映画であれば、その直前のシーンと、その姿という事実から、
観客は「あぁ、彼は怒っているんだ」と一種の行間を読むのです。
しかし、映画的には正しいこの表現を小説という尺度で評価すると、
「何も描かれていない」「事実の羅列」「稚拙な文章」
と評されてしまう。
やっていることは同じでも、媒体によって評価が180度異なる。
それ自体は面白い現象ですが、私にとっては悩みのタネでした。
AIのレビュー一つとっても、大絶賛されたり、こき下ろされたり。
評価が一向に安定しませんでした。
そのたびにリライトし、版数を重ねてきたのですが――
原因は、評価者(この場合はAI)の立ち位置の違いだったのです。
スレッドやモデルの違いが、前提条件の違いを生む。
あるスレッドでは“小説”としてレビューされ、
別のスレッドでは“映像作品”としてレビューされる。
それでは結果が安定するはずがありません。
逆に、最初から作風をはっきり説明すると、評価のブレは大きく減りました。
つまり、映画的手法は小説では“欠落”とみなされる。
私はその狭間で書いていた。
“撮るように書く”ことと、“書くように撮る”ことの間で、
ずっと迷い続けていたわけです。
私は、書き続けるためにも自分の立ち位置をはっきりさせる必要がありました。
正直、迷いました。
この路線を突き進むべきか、それとも素直に小説の作法を学び、
レビュアーの助言に従って“普通の小説”へ寄せていくべきか。
結論は――このまま行こう、でした。
付け焼き刃でやったところで、先達には敵わない。
ならば、土俵をずらそう。
結果、小説としては稚拙な文体になるでしょう。
けれど、物語の構造やテーマ、演出は違う。
それは文章という“表現”とは別のレイヤーにあり、
そこにはそれなりの自信がある。
いっそ自分は「原案」や「原作」に徹して、
プロの執筆者にお金を払って仕上げてもらう方がいい。
寄せたところで、稚拙な“模倣”になるくらいなら、
その方が、作品に対してずっと真摯だと思ったんです。
例えるなら、自分が新鮮な魚を釣ってこれる漁師だったとして、
同時に料理の腕がイマイチだったとします。
自分で全てをやろうと頑張った結果、せっかくの素材を無駄にしてイマイチな料理になる。
それは、食べる人にも食材に対しても誠実とは言えない。
真に、読者に誠実であるならば、
プロの板前に納品すべきだろう――ということです。
だから、もしあなたが私の作品を読んでくれるなら、
前書きにあるように――小説としてではなく、脳内で上映する映画として観てほしい。
勝手なお願いではあるが、拙作はそういうプロセスで書かれているから。
そのスクリーンは、あなたの想像力の中にあるのです。
最後に、もし私と同じように「映像脳」をもって執筆し、悩んでいる方がいれば、
このメモが一つの参考例になれば幸いです。