• 現代ドラマ

思慕


そこかしこにある芸術の世界では、その才能が本物であればあるほど、大多数である凡人の持つ「緑の瞳の怪物」に潰されていく。
あれほど我々の心を掴んで離さなかった本物の芸術家が、そうはなれなかった者共の悪意によって傷つき、筆を折り、時には命さえも投げ出してしまう。
そうして本物を殺すと、その遺物を我先にと剥ぎ取って、初めから自分のものであるような顔をする。その身に扱いきれない芸術は、ただの異物となって内から崩壊させるだけであるのに。

本物は身を守る術を持たず、簡単に触れそうな気さえしてくる。
触れることができないとわかると、トモダチになろうとする。
本物は芸術との間にだけ生きているから、そこにトモダチは入っていけない。
それがわかると今度は、本物の居場所を失くしてしまおうと根も葉もない罵詈雑言を好きなだけ流してしまう。それが、絵の世界なら猶更。

あとは「冬への扉」で書いた通り。

流行、とは便利な言葉で。
誰かが生み出したものを大多数で使い回すために多用される。
流行りだと言っておけば責められないと思ったのだろうか。
そう誤魔化しておけば、生み出した本人も気付かないと思ったのだろうか。
流行だと言っておけば、その発端を隠し、あまつさえ本人に対してとっくに旬の過ぎた古いものだと、第三者が勝手に終わらせることができてしまう危険なものだ。

本物は本物であるというだけで凡人から罰を食らう。
なのに凡人は本物を殺したとしても罰を食らうことはまずない。
正しい罰を与えられた凡人など、レアケース中のレアケースと言っても過言ではないのだ。それらですら、罰の重さは圧倒的に足りていないのに。

本物を守ろうとする楯がいくらあれば、失わずに済んだのだろうか。
楯でなく剣なら守ることができただろうか。あるいはその両方か。

どうしても失わせることができず、山中氏は親友を取り戻した。
作品という夢の中ですら、もう一度死なせてしまうことが憚られたのだ。
作品という夢の中でなら、もう一度生かしてしまうことができたのだ。

友の墓はいつでも綺麗だ。
掘り起こしてみたくなるほど真新しく、清潔にされている。
思い返すたびに記憶は美しく、だからこそやるせない。
思い返すほどに、記憶の中の友が呼びかけてくる。

”いつか死んだら、まず灰になる。
灰になったら、雲になるでしょう。
雲になったら世界中を旅して、愛した海に雨で降って。
好きなだけ海を漂って、飽きたら何かになる。
そしたらもう一度くらい、会いに行ってあげる。”

友は何になっただろうか。
春を告げる風の精か、故郷に降る雪の結晶か。
なんにせよ、いつ会いに来てくれるだろうか、と。

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