人生には必ず困難な時が訪れます。
自らが原因で招くこともあれば、
不可抗力や運命に導かれる場合もあります。
主人公「ベンタこと東弁太一(とうべんたかかず)」と、
もう一人の主人公、「分銅海斗(ぶんどうかいと)」。
親を失うという自分の力ではどうする事も出来ない人生の困難に、
「ベンタ」と「海斗」は遭遇します。
『自分の力で、自分の人生を切り開きたい』、
プロボクシングに人生をかける決心をします。
入門から半年、
村木コーチの厳しい言葉に反発し、
練習を勝手に変更してジムを飛び出したベンタ。
海斗はベンタを追いかけ、公園にいるベンタを見つけました。
ベンタは、海斗も自分と同じようにつらい思い出や境遇、先の見えない不安と戦っていることを知ります。
(ここまで第一章)ここからの続き……。
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前回のつづき、
<新人プロテスト前日 ベンタと海斗 故郷への電話>
② ベンタのお母さんへの電話
ベンタは仕事が終わってすぐに公衆電話に向かいました。
この日のためにテレホンカードと百円玉を用意してしっかり巾着袋に入れ、他の荷物と一緒にリュックサックごと背負っていました。
このリュックは、バスケットボールチーム【ライズ】時代の名入り特製バックでした。
ベンタはもう一つの大型のスポーツバッグとともに今でも大切に使っていました。このバックを見ていると巻川コーチや先輩後輩達の顔が浮かんで勇気が湧いてくるのをいつも感じていました。
ベンタには自分が苦しい時、悲しい時、自分にはいつもバスケットボールの仲間の存在がありました。
父を亡くし母と二人きりになった時も、生活が苦しく母のためにバスケットボールを辞めようと思った時も、いつも励ましてくれたのは他でもない、バスケットボールアカデミーの巻川コーチやチームメートでした。
ベンタはリュックの中の巾着袋からテレホンカードを取り出し、受話器を握りしめ、母の携帯に電話をかけます。
ベンタの耳に呼び出し音が聞こえてきました。
ここから以下は、公開中の、
「ベンタ」本文でお楽しみください。
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和歌山にいる母の携帯にベンタの笑顔の写真が表示された、と同時に呼び出し音が鳴った。
母の携帯の呼び出し音は、母が若い頃から大好きだった曲、REOスピードワゴンの『涙のフィーリング』のイントロの部分だった。静かに印象的なピアノの音が聞こえてきた。
母は急いで携帯を手に取り電話に出た。
「お母さん、いま大丈夫? 忙しい?」
ベンタが聞いた。
「大丈夫よ、そろそろ掛かって来るんじゃないかって、待ってたのよ」
ベンタの母が待ちかねたように答えた。
「たかかず、ちゃんと食べてる? 怪我してない?」
と、ベンタの母が尋ねた。
「しっかり食べてるよ。練習はきついけど大きな怪我もしてないよ」
ベンタが答えた。
「そう、良かった。心配で、毎日お父さんの遺影に手を合わせてお願いしてるのよ」
ベンタも毎朝部屋にある父の写真に手を合わせてから、仕事に出ていた。
「お母さんこそちゃんと食べてる? 一人だと支度が億劫だよね?」
「ハハハッ、休みの日に買い出しして、いろいろ仕込んでおくのよ」
ベンタの母は、外食や店屋物があまり好きではなかった。
「冷蔵庫にパックごと入れてあると便利だし、栄養のバランスもとれるしね。ぬか漬けもあるから今度帰ってきたら食べてみて」
「ぬか漬けかぁ? お父さん、好きだったねぇ」
もう二度と会う事の出来ない亡き父の思い出が、ベンタの口からごく自然に出た言葉だった。
「楽しみに待っててちょうだい! と言っても、ボクサーは色々食事制限があるでしょうけどね」
好きなものを好きなように食べれないプロボクサーという過酷な職業を選んだ十六歳の息子を不憫に思った。体の大きなベンタは余計に減量が必要になるだろう、そんな気がしていた。
「まあ栄養の事とか体に関する知識は無理やりでも頭に入ってくるようになったけどね」
「お仕事とか、ジムや寮の皆さんにご迷惑をおかけしてない?」
母の心配している顔が自然と浮かんできた。
「仕事もボクシングも頑張ってるよ。周りの人が色々教えてくれたり面倒を見てくれるから心配いらないよ」
ベンタが一人で気をもむ母を安心させようとした。
「高校の資格の勉強はどう? 疲れてやれないでしょ?」
母が聞いた。
「そっちの方は頑張ってるとは言えないけど、何とか少しづつやってるよ」
ベンタが百円玉を握った手で頭をかきながら答えた。
「同い年の分銅さんとは仲良くやってる?」
母がさらに尋ねた。
「いろいろ助けてもらってる。あいつはしっかりしてるから頼りになるよ」
ベンタが海斗の顔を思い浮かべながら素直に返事をした。
「そう、良かった。お母さんは安心しました」
母の安堵した声に、ベンタが胸をなでおろした。
「お母さん、手紙で書いた通り明日プロテストを受けることになったんだよ」
「手紙読んだわよ。いよいよね? あっと!」
母が持っていたスマートフォンを誰かが横取りした。
「かず~、もう少し電話よこしなさい」
小さいころから聞きなれた懐かしい声だ。
「叔母ちゃん、居たの? びっくりしたなぁ、もう?」
ベンタが驚いた。
「かずちゃん、叔母ちゃんはないでしょ! お姉ちゃんて言いなさい、っていつも云ってるでしょ? もう~」
「咲(さき)姉ちゃん、ごめんなさい。毎度のことで」
ベンタがおどけながら返した。
その声を聞きながら、吉川咲が瞬間的に母の携帯をマイクの設定に指先ですばやく切り替えた。
「はははっ、いいのよ、かずちゃん。それより明日、プロテストなんだってね?」
「うん、自信はないけどね。とりあえず頑張ってみるよ」
ベンタの弱気に答える声が、スマホから響いて母の耳にも聴こえてきた。
「そんな弱気でどうするの?」
「かずちゃん、強気で頑張れよー。おもいっきりやってこーい!」
吉川咲がベンタに気合を入れた。
吉川咲は、母とは正反対の性格で男勝りで気丈夫、小さいことにくよくよしない、面倒見がよくてどんな時でも竹を割ったような性分の女性だった。
ベンタを赤ん坊の頃から自分の子供のようにかわいがって面倒を見てくれた、母とはまるで姉妹のような母の親友だった。
「怪我しないようにね。よくここまでがんばったね」
母が少し涙ぐみながら声をかけた。
父を病気で失い、高校進学とバスケットボールをとるか、それとも徳川万世という人についていってプロボクサーになるか悩んでいた時、母を幸せにしてあげたい、母に家をプレゼントしてあげたいというベンタの母親を思う気持ちを知り、ボクサーになることを反対していたベンタの母を、一緒になって説得してくれたのが母の親友、吉川咲だった。
「咲姉ちゃん、お母さんをよろしくね!」
「まかしときなって。安心してがんばってきなさい!」
「じぁ、お母さん、また電話するからね。じゃ、切るよ」
「悔いが無いようにね」
ベンタの母は、心配でこれ以上の言葉を出す事ができなかった。
「かず~、吉報待ってるよ!」
不安そうな母に代わり吉川咲が気丈にふるまった。
「ラジャー(ベンタの得意の返事)」
母や吉川咲には到底見えるはずのない電話機の向こうで、ベンタが敬礼しながら答えた。
ベンタが受話器を握り締めながら、静かに電話を切った。
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次回は、新人プロテスト前日 ジムでの練習 の話です。
第三章まで、まだまだ続きます。
生活や人生が思うようにいかなくて苦しい時、つらい時、どん底だと感じるとき、人は現実とどう向き合えばいいのでしょうか?
どう立ち直ればいいのでしょうか?
野﨑博之(のさきひろし)の「呼び止めざる事の為に」の本の中に、
阪神淡路大震災に寄せた、「道標」という作品が所収されています。
この「ベンタ」という小説に、「道標」作品の思いが込められています。
連載中、【ベンタ】第二章 をお楽しみください!
次回以降も、現在公開されている、
「ベンタ」【前編】 『 序章 ~ 第三章 』 に散りばめられた、
『エピソードの数々』を、
少しづつ紐解いていきます。
おたのしみに・・・。
野﨑博之(のさきひろし)
