「――アレク! いつまで寝てんの、そろそろ夜明けよ!」
カンカンカンッとフライパンをお玉で叩く音、続いて母親の声で、青年は目を覚ました。外はまだ暗い。夏の早朝、涼しい風。
「……おふくろー、もうちょっと寝かせといてくれよー!」
「知らないわよ! まったく、夜遅くまで友達と騒いで……」
「昨日はジャックスの誕生日だったんだ、仕方ないだろー」
ぶつくさ言いながらも、伸びをして寝床から起き上がる青年。
がっしりとした体躯に、短く切りそろえた茶髪。お世辞にも美男とは言えないが、人の良さそうな顔つき。
青年の名を、アレクサンドルという。タンクレット村のしがない農家の息子だ。
「ほら、さっさと朝ごはん食べなさい」
「うーい」
家の外に出て、先に起きていた父親と「おはよう」と挨拶を交わし。
井戸から水を汲み上げて洗顔、うがい。家に戻ると、食卓には母お手製の粥《ポリッジ》が、木の器の中でほかほかと湯気を立てている。
「また粥か~たまには別のモン食べたいな……」
木のスプーンを手に取りながら、しょんぼりするアレク。その言葉に、母はキッと眉を吊り上げた。
「朝から贅沢言ってんじゃないよ! 文句があるなら取り上げるわよ!」
アレクは慌てて、粥をかき込んだ。
「たいへん美味しゅうございます!」
「よろしい!」
フンスと鼻を鳴らす母。ちなみに、アレクはちゃっかりおかわりした。なんだかんだで母の味なのだ。
「ごちそうさま~」
「はーい、行ってらっしゃい」
朝食を終え、村の面々と挨拶しながら、父と一緒に畑へ向かう。
「アーレク! おはよっ!!」
途中で、幼馴染のクレアが明るい笑顔で声をかけてきた。成人の儀から数年、女性らしさを増した彼女は、より一層きれいになりつつある。
――とはいえ、その性根は綺麗なんてもんじゃないが。
「…………!」
足元や周囲を念入りに確認するアレク。
「なによ、その態度は。返事はどうしたのよ!」
「いや、何か罠があるに違いねえと思って……」
幼い頃より彼女のいたずらに振り回され続けてきたアレクは、今ではすっかり、事あるごとにいたずらを警戒するようになってしまった。
「疑心暗鬼すぎるでしょ!! へーんーじ!!」
「……おはよう」
「ふふん。それでいいのよ」
ニカッと笑って、クレアはスカートをひらひらさせながら去っていく。
今日は何事もなかったな、と思ってアレクが一歩踏み出した瞬間、巧妙に偽装されていた地面がズボォッと陥没し、そのまま落とし穴に足を取られた。
「ぬぉぁぁっ?!」
「あーっはっはっは!!」
それを見届けたクレアは大笑い。
「このッ! 朝っぱらから暇人かよテメーっ!!」
「パン屋は早起きなのよーん!!」
ころころと笑いながら、今度こそクレアは去っていった。
「まったく……」
ぱんぱんと土埃を払って、落とし穴を埋め直すアレク。父や周囲の村人たちは、微笑ましげにそんなふたりを見守っていた。
その後、畑に到着。
アレクが真っ先に確認したのは、彼自身の小さな畑だ。
「…………」
「どうだ?」
父が、ニヤニヤしながら尋ねてくる。
「まあ、ぼちぼちかな。……そろそろ咲くと思う」
「はっはっは。そうかそうか、楽しみだな」
むっすりしたアレクの肩をポンポンと叩き、「お前も大きくなったもんだなぁ」と感慨深げにする父。
アレクは答えず、黙々と父の畑の雑草抜きを開始した。
それからは地味な作業の連続だ。草刈りをしたり、害虫を見つけ出して潰したり、ヤギのミルクを搾ったり、薪割りしたり――
あっという間に時間が過ぎて、お昼時になる。
「アーレークッ!」
クレアが、パンかごを手にやってきた。
「お疲れさま! 頑張ってるアレクに、ごほうびのおやつを持ってきたわよ!」
「…………嫌な予感しかしねェ~~~!」
「なによ! あたしが丹精込めて作ったおやつが食べられないっていうの!」
よよよ、としなを作って倒れ、わざとらしく泣き真似をするクレア。
「……そうは言ってねぇだろ」
「へへーん。じゃあ召し上がれ♪」
ずいっ、とかごを差し出された。
中身は、何の変哲もないサンドイッチ……のように見える。
「…………」
目を細めて慎重にひと切れを手に取り、スンスンと匂いを嗅いでから、意を決して頬張るアレク。
「……あれ、普通にうめえ」
「でしょ~~~?」
フフーーーーンと得意げな顔をするクレア。
「うん……なんというか……美味しい。このマスタードが絶妙な感じ」
「いいのが手に入ったのよ~」
したり顔でうなずくクレア、さらにアレクが一口頬張ったところで。
ブチッ、と何かを噛みちぎる感触があり、口の中で強烈な辛みが弾けた。
「というわけで、マスタードをた~~~っぷり中に入れておいたわ」
「ぐあああああぁ~~~~!!」
ご丁寧に、葉っぱ何かでマスタードの塊を包んで、封入していたらしい。あまりの辛さに悶絶するアレクに、クレアが笑い転げていた。
「入れ過ぎだバカタレ~~~~~!」
「でも美味しいでしょ~~?」
ただ、真ん中のマスタードの塊さえなんとかすれば、普通に美味しいサンドイッチだった。
「アレクの反応であたしもお腹いっぱいだわ~♪」
ペロッとサンドイッチを平らげたアレクに、クレアも満足そうにしながら去っていった。この間、アレクの父は離れたところでめっちゃ微笑ましげな顔をしていた。
おやつを食べてからは、農作業を再開。日が暮れるまで代わり映えのない、しかし割とキツめな作業が続く――
と、思われたが。
「大変だ! グレートボアが出てきたぞ!」
「何ィ!?」
村人のひとりが、大慌てで駆けてきた。どうやら畑に魔獣が出現したらしい。
アレクを含む男衆たちが、農具を手に現場へ急行する。
「フゴッ、フゴゴッ!」
すると、立派な反り返った牙を持つクッソやたらとデカいイノシシが、畑で野菜を食い散らかしているではないか!
「テメーっ、おれたちが丁寧に作った野菜を!」
「今すぐ出ていきやがれーっ! 畜生に分け与える野菜はねえ!」
「ぶっ殺すぞコラァ!!」
でこぼこな隊列っぽい何かを組んだ村人たちが、農具や古ぼけた剣・盾を手に威嚇しまくる。
「フゴゴッ……」
うるせえなァ……とばかりに剣呑な目をしたイノシシ魔獣が、くるりと向き直り。
前脚でズッ、ズッと土を掘るような、力を溜めるような仕草をしだした。
「…………」
あれ、これやべーんじゃね……と皆の思考がひとつになる。
「フゴゴォォォッ!!」
そしてイノシシ魔獣が猛烈な勢いで、牙を振り回しながら突撃してきた。
「うわああああ!」
「こいつはやべーって!」
「神官さまー! 早くきてくれーっ!」
隊列で受け止める、などという真似ができるはずもなく、散り散りになってイノシシ魔獣の突進を避けるので精一杯な村人たち。
「オラーっ! このイノシシ野郎!!」
と、突撃を繰り返すイノシシ魔獣の頭に、ゴツンと大きな石が命中した。
「フゴッ!?」
見れば、右手に大振りな鎌(剣としても機能する)、左手にシャツを持った、上半身裸の青年がひとり。
「オラオラかかってこんかい!」
シャツを振り回しながら怒鳴り散らすのは、他でもないアレクだった。
「フゴゴーッ!」
そのひらひらとしたシャツの動きに意識を奪われたイノシシ魔獣は、大して何も考えずに突進し始める。
「う――おおおおぉっ!」
そして限界ギリギリまでイノシシ魔獣を引き付けたアレクは、間一髪で横に跳んで突進を回避。
――シャツの動きに完全に気を取られていたイノシシ魔獣は、アレクの背後にあった切り株の存在に気づけず、そのまま派手に足を取られて転倒、近くの大木に頭から激突した。
「プギギーッ!!」
悶絶し、地面で暴れ回るイノシシ魔獣。ダメージを与えたのは確かだが、近づくこともできない……と思っていたところで、ヨボヨボの聖教会の老神官がようやく現場に到着。
「ぬぅ……魔獣めっ、村の平穏を脅かすとは、ゆるすまじ……っ! 【聖なる輝きよ《ヒ・イェリ・ランプスィ》 この手に来たれ《スト・ヒェリ・モ》】」
クワッと目を見開いた老神官が、銀色の光を身にまとう。
「【光あれ《フラス》!】」
起き上がろうとしていたイノシシ魔獣の顔面に、閃光が直撃。ジュワッと目を焼かれたイノシシ魔獣がつんざくような悲鳴を上げる。
「【大いなる加護よ《メガリ・プロスタシア》!】」
さらに、老神官が村人たちに銀色の加護を与えた。
「うおおお力がみなぎってくる!」
「もう何も怖くねえ!」
「やっちまえー!!」
――そうして、寄ってたかってボコボコにされたイノシシ魔獣は、あえなくクセの強いイノシシ肉に変わった。
肉屋がほくほく顔で捌き、後日、熟成させてから各家庭に配られることになった。もちろん一番の取り分は老神官で、その次が――
「アレク、ってわけ」
「といっても牙なんてもらってもなぁ」
呆れ顔のクレアに、大きな牙を見せながら渋い顔をするアレク。
暴れ回るイノシシ魔獣の動きを止めた、として、その武功を讃えられたアレクには立派な牙が贈られたのだった。
「あんな大きな魔獣を、ひとりで引き付けるなんて無茶するわね!」
「日頃からクレアのいたずらで鍛えられてるからな!」
「……なにそれ」
フフーンッと得意げなアレクに、クレアが呆れたような顔して、唇を尖らせた。
「あんまり無茶して、怪我とかしないでよね!」
ぺし、っとアレクの頬を軽く指で弾いて、くるりと背を向ける。
「いたずらの相手がいなくなったら困るから!」
そしてそのまま、夕闇の中を、パン屋の方へ駆け去っていった。
「…………」
頬を撫でながら、帰宅するアレク。
「やあ、今日は大活躍だったな」
「おやじー、この牙って何かに使えるのか?」
「特に使い道はないが、立派だし街に持っていったらそこそこの値段で売れるぞ」
「へえ、じゃあ売ろうかな」
「記念に置いといてもいいのよ?」
夕飯の鍋をコトッと食卓に置きながら、母が首を傾げる。
「いや、置いてても仕方ねえし、なんかイイもの買おうぜ」
全くその手のトロフィーにこだわりはないアレクは、肩をすくめて答えた。
「お、シチューだ。うまそー」
「花嫁に贈るヴェールでも買うかな」
「ぶふぉ」
そして夕飯を口に含んだところで、父の言葉に吹き出す。
「……お前もそろそろ、身を固めた方がいいだろう。なあ母さん」
「そうねえ」
顔を見合わせて、ふふふふふと笑う両親に、照れ隠しのむすっとした表情を浮かべるアレク。
「そろそろ、咲きそうなんだろう?」
父の問いかけに、無言でうなずく。
タンクレット村では、男が意中の相手に、花を贈って求婚する風習がある。
その花は、特別なものであればあるほどよい。職人なら造花を作ってもいいし、金持ちなら装飾品で花に見立てた何かを仕立ててもいい。
ただ、農家の場合は、往々にして丹精込めて種から花を育て、咲かせて送るのが一般的で、アレクもその例に漏れず、秘密の畑で花を育てていた。
天真爛漫でいたずら好きな彼女にぴったりな、元気いっぱいの夏の花を。
……尤も、『秘密の畑』だなんて言っても狭い村のことだし、あのクレアにアレクが隠し事なんてできるはずもない。
だが、クレアは、花の件には全く触れないし、気づいていないフリをしている。
……つまり、そういうことなのだ。
「…………まあ、うん。もうちょっとしたら……咲きそうだし」
もごもごとシチューをパンと一緒に詰め込んだアレクは、「ごちそうさまー!」とそのまま逃げるようにして寝室に引っ込んだ。
寝台に寝転がる。
「…………」
そっと、頬に触れる。ぼんやりと窓から星空を見上げながら。
「……今さら夫婦って感じでもねえけどな」
くるって寝返りを打って、誰に言うとでもなくつぶやいて。
「……ふふっ」
だけど、その口元はほころんでいた。
今日は色々とあったけど、たぶん明日は――
ちょっといたずらが刺激的なだけの、平凡な一日がやってくるに違いない。
その安心感を胸に――アレクサンドルは、眠りにつくのだった。