:静かなる食卓の戦い
あれから数日。
健太はまだ、この家にいた。
離婚届にサインはしたものの、「話し合いたい」「もう一度チャンスをくれ」と見苦しく泣きついてきたのだ。わたしは彼の両親の手前もあり、彼が新しい住まいを見つけるまでの数日間という条件で、同居を続けていた。
もちろん、ただ大人しく待ってあげるつもりなど、毛頭ない。
「浮気したらどうなるか」、その講義はまだ始まったばかりなのだから。
仕返しは、夕飯から始まった。
「いただきます」
恐る恐る箸をつける健太。その日のメニューは、彼の好物だと言っていた肉じゃがだった。一口食べた彼の顔が、わずかに歪む。
「…あれ? 美咲、これ…しょっぱい、かな」
「あら、ごめんなさい! ちょっとお醤油、入れすぎちゃったかしら」
わたしは悪びれもせず、にっこりと微笑む。健太はそれ以上何も言えず、お茶で流し込むようにして、しょっぱい肉じゃがを食べていた。
翌日の食卓には、麻婆豆腐が並んだ。湯気と共に立ち上る、食欲をそそる香り。しかし、健太がスプーンで口に運んだ瞬間、彼はむせ返った。
「かっ…! 辛い! これ、辛すぎないか!?」
「あら、ごめんね! あなた、辛いの好きかなって思って、豆板醤をサービスしちゃった」
わたしは自分の分は事前に取り分けておいた、辛さ控えめの麻婆豆腐を涼しい顔で頬張る。ヒーヒー言いながら水をがぶ飲みする健太を横目に、心の中で笑った。サービス(笑)。
その次の日は、野菜炒め。
「……」
健太は無言で箸を進めている。いや、進んでいない。ただ、口に入れては、困惑した顔で咀嚼している。
「どうしたの? お口に合わなかった?」
「いや…その…味が、ない、よ」
そう、その日の野菜炒めは、塩も胡椒も、何の調味料も使っていなかった。ただ油で野菜を炒めただけの、素材の味(笑)の塊だ。
「あら、ほんと? ごめんね! 最近ちょっと、物忘れがひどくって」
わたしはわざとらしく自分のこめかみをとんとんと叩いてみせる。健太は諦めたように、醤油をドバドバとかけて、味のない野菜の残骸を胃に詰め込んでいた。
食事だけではない。
「うわっ、熱っ!」
バスルームから悲鳴が聞こえる。給湯器の温度設定を、彼が入る直前にマックスの60度に上げておいたのだ。
かと思えば、次の日は水風呂だった。
「美咲! 風呂が水なんだけど!」
「あら、ごめん! 追い焚きボタン、押し忘れちゃったみたい」
寝室は別々にしたが、彼の部屋のエアコンのリモコンは「なくして」しまった。残暑の厳しい夜、彼は汗だくで眠れない夜を過ごしていることだろう。
わたしは快適な温度に設定されたリビングのソファで、優雅に読書を楽しむ。
健太は日に日にやつれていった。会社では『ミサキ』さんの旦那さんからの突き上げで針の筵。家に帰れば、わたしからの静かで執拗な嫌がらせ。彼の精神がすり減っていくのが、手に取るように分かった。
ある夜、彼がやつれた顔でリビングにやってきた。
「美咲…もう、やめてくれ」
「何のことかしら?」
「分かってるだろ! 食事も、風呂も…! 俺が悪かった。謝る。だから、もう普通にしてくれ…!」
彼は床に膝をつき、懇願するようにわたしを見上げた。
わたしは読んでいた本をパタンと閉じ、冷たい視線を彼に注いだ。
「普通? あなたが壊した日常を、どの口が『普通にしてくれ』なんて言うの?」
「……っ」
「わたしが毎朝、どんな気持ちであなたのお弁当を作っていたか分かる? わたしが毎晩、どんな想いであなたの好きなものを作っていたか、考えたことある?」
「それは…」
「しょっぱい? 辛い? 味がない? あなたがわたしにした裏切りは、そんなものより、もっとずっと、しょっぱくて、辛くて、味気ないものだったのよ」
わたしの言葉は、刃物のように彼の心を抉っていく。
「これは仕返しじゃないわ。これはね、追体験。あなたがわたしに与えた苦しみを、ほんの少しだけ、あなたにも味わってもらっているだけ」
わたしは立ち上がり、彼の目の前に一枚の紙をひらりと落とした。それは、新しく契約したマンションの契約書だった。
「明日、わたしはこの家を出ていくわ。あなたの荷物は、週末にでも業者に頼んで処分させてもらうから、必要なものだけ持っていくことね」
「待ってくれ、美咲!」
「ああ、それから」
わたしは、とどめの一言を彼にプレゼントした。
「あなたの会社に、部長から正式にクレームが入ったそうね。今回の件で、プロジェクトから外されるって、お義母さまが泣きながら電話してきたわよ」
浮気したら、どうなるか。
家庭も、仕事も、信用も、すべてを失う。
講義はこれでおしまい。あとは、何もない空っぽのこの家で、自分のしたことの代償を、生涯かけて味わい続ければいい。