第2話
アズレアナ帝国極東部、クレンシアガ領。
南に果てなき海、北に鋭敏とした山脈を擁するクレンシアガ。一見して自然豊かにみえるものの、一度その地を訪れた者は皆苦い顔をして戻ってくるという。
海は水温が低く波が高いため、ほとんど魚を獲ることはできない。山は樹木生い茂る青々としたものではなく、一年を通して薄雪が積もるような、切り立った岩肌の鋭山。そんな荒々とした土地であることを知ったなら、好き好んで再訪しようという人間はいないだろう。
クレンシアガは他に行く場所がないような人間が流れつく場所。
あるいは普通の人間としての生活を自ら放り出し、よからぬことを企む者たちの掃き溜め。
大陸一の繁栄を誇る大帝国アズレアナ。幸福にあふれた人間は他人の不幸に鈍感になるものだ。栄華はなばなしいこの帝国が、光も闇も抱えていることを知る国民はそう多くはないだろう。
◇
仕事も家も失ったアナスタシア。
けれども、彼女はそれほど落ち込んではいなかった。ギャガに流れ着く前は、もっとひどい状況だった。そのころに比べればマシだと自分を励ます。
「まっ、人生こういうこともあるか。切り替えよう。わたしにはやることがあるもの。いちいちめげてちゃいられないわ!」
精一杯明るく上げた声は、白い息となって曇り空に消えていく。
「せっかくだから、街を見て回ろうっと」
アナスタシアはこの土地の人間ではない。ダリヤに拾われてから三週間、朝から晩まで働き詰めだったので、ギャガについてよく知らなかった。不本意ながら自由を得た彼女は、気分転換も兼ねてひとまず街を散策することにした。
湿った土の匂いがする幅広の道。寒さを堪えるように俯きがちで先を急ぐ住民は、圧倒的に男性が多い。
(みんな、仕事に行くみたいね)
漁師か、狩人か。この街に根を張る民は、そのどちらかで生計を立てていることが多いとダリヤは言っていた。
無骨な顔立ちに、使い込まれた防寒蓑。獣の毛皮で作った外套を着ている人もいる。
日々懸命に働いていることが一目でわかる風貌。アナスタシアはすれ違う彼らを一人一人眺めながら、どこか嬉しい気持ちになっていた。
場違いにニコニコしているアナスタシアを怪訝な顔で見る通行人もいたが、彼女はまったく気に留めない。大きな通りを少し行くと、賑やかな笑い声が上がる店があった。
「ここは食堂なのかしら? スパイスのいい香りがする」
年季の入った木造の建物を覗き込むと、やはりそうだった。朝の一仕事を終えた漁師たちがグラスを突き合わせて酒盛りをしている。熱気と共に酒臭さがむわっと顔にまとわりついた。
「うわぁ、楽しそう! いいなあ……。ああ、お腹が減った。朝ご飯、食べ損ねちゃってたんだったわ」
ぐう、と彼女の腹が空腹を知らせる。
つい数分前まで勤めていたダリヤの宿屋では、毎食パンが出た。明らかに客の食べ残した固いものだったが、アナスタシアは貰えるだけでありがたかった。
けれども。働き始めた日は丸々一個貰えていたのが、六分の一、八分の一としだいに量は減っていった。昨日は一かけらになり、とうとう今朝は用意されなくなっていた。
パンの量がミスの量に反比例していることに彼女は気がついていない。運悪く食べ残しがなかったんだろうと、心の底から信じている。
貧しいギャガでは、貧相な食材の味を大量の香辛料を使うことで誤魔化している。住民たちにとってはごく普通の料理でも、アナスタシアにとっては食欲をそそる上等な香りだった。
美味しい匂いに耐えられなくなって、彼女はポケットに手を突っ込んだ。小さな空間をまさぐったものの、硬貨は一枚も入っていない。
「お給料、もらい損ねたわ。……いえ、花瓶代で赤字ね」
ため息をつき、アナスタシアはとぼとぼと店を後にした。
こういうとき、泥棒だったら。食糧庫に忍び込んで、たらふくお腹を膨らますんだろうなあ……。
毒にも薬にもならない妄想をしていると、目の前の道に黒いものが飛び出してきた。咄嗟のことに思わず身構えると、どうやらそれは猫だった。口元に魚を咥えている。
猫の方もアナスタシアに驚いたようで、ハッと彼女を見て動きを止めた。
「コラァっ! このクソ泥棒猫がっ!!」
野太い怒号と共に、道の脇の店から石が飛んできた。石は黒猫の後ろ脚に命中し、弾みで猫は転倒した。
「金を持ってねえ奴は、猫だろうが人間だろうがお断りなんだよ! ったく。今度やったらただじゃ済まねえからな!」
目を剝きながら姿を現した魚屋の店主。猫から魚を奪い返し、ふんと鼻を鳴らして腹を蹴り飛ばした。「ミャッ!!」と短く悲鳴が上がり、黒い身体が一回転する。
怒りが冷めない様子の店主は店頭の木箱をドカッと蹴りつけ、忌々しげな顔をして中に戻っていった。
「だっ、大丈夫? 猫ちゃん!」
一部始終を目撃していたアナスタシアは慌てて猫に駆け寄った。
と、黒猫はがばりと身を起こし、すごい勢いで建物の隙間に駆け込んでいく。慌ててアナスタシアが隙間を覗き込んだときには、その姿はどこにも見えなくなっていた。
「かわいそうに。でも、あれだけ走れるのなら怪我はなさそうね」
猫に善悪などわからない。店先に魚が並んでいたから、一匹取っただけ。
でも、大事な商品を盗られて怒る店主の気持ちもわかる。生きていくためには残酷にならねばいけないこともあるだろう。
物事の善悪ほど難しいことはない、とアナスタシアは思う。
「……生きていくことって難しいわ。猫も、わたしも」
みんな普通の顔をして生きているけど、それってどうやったらできるんだろう? とアナスタシアは思う。
誰かが教えてくれるわけでもない。本に書いてあるわけでもない。温かい両親のもとに生まれ、平凡に育ち、いずれ結婚して子供を産む。多少の波はあってもなんだかんだ楽しく一生を終える。そういうテンプレートみたいな人生って、ほんとうに存在するんだろうか。
少なくとも七歳のころまでは、確実に自分もその道の上にいたはずなのに。
しばらくアナスタシアは、その場に立ち尽くして考えていた。
ギャガの夜は早い。そろそろ今日の野宿する場所を探さないといけないと思い直し、適当な物陰や広場を探していたその時。
「誰か! 誰か助けてーっ!!」
赤と灰色が混じった夕暮れの空に、甲高い悲鳴が上がった。
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