錠前破りのアナスタシア
孤月サヤカ
第1話
「このごく潰し! もう堪忍袋の緒が切れたよ。今すぐ出てお行き!」
アズレアナ帝国極東部、クレンシアガ領。そのまた僻地に位置する街、ギャガ。
この街で一番古い宿屋を営む女将は、溜まりに溜まった鬱屈を晴らすように、目の前の小柄な少女・アナスタシアに向かって叫んだ。
アナスタシアはくすんだ灰色の髪をぽりぽりと掻き、紫色の丸い瞳をぱちぱちと瞬かせる。その仕草には、十五歳という年齢相応のあどけなさが感じられた。
「えーっと。今度は何がいけなかったですか?」
「何、だって?」
恰幅のいい女将は額に青筋をぴくつかせる。
「よくもそんな口が利けたもんだね。いいかい? 全部だよ、全部。あんたが清掃した部屋の客からはね、もれなくクレームが入ってんだ。俺を豚小屋に泊まらせる気かってね。掃除一つまともにできないなんて、いったい今までどういう生活をしてきたんだい!」
「ご、ごめんなさい。気をつけます。掃除をする習慣が、あんまりなかったので」
「もういいよ。いい加減、その言葉は聞き飽きてんだ」
女将は身体の前で腕を組み、じろりとアナスタシアをねめつけた。そして、その足元で粉々になっている花瓶だったものに目を落とす。
「あんたが割ったこれ。いくらするか知ってるかい? いいや、知らないから平然としてられるんだろうね。これはね、先代の主人が都の骨董市で仕入れてきた貴重な品物なんだ。あんたを娼館に売ったって赤字になるくらい高価な物なんだよ!」
女将の権幕にアナスタシアはひゅっと肩をすくめる。けれども、その顔はどこか平然としていて、怯えているようには見えなかった。
「どうしてそんな高価なものを、廊下の小さな机の上に置いておくんです? ぶつかったらすぐに転がり落ちて割れてしまいますよ。……こんな風に」
アナスタシアが床に目を落とすと、次の瞬間、乾いた音と共に頬に熱が広がった。
頬を打たれたのだと気がつくまでに、時間は掛からなかった。
「ふざけているのかい! ああもう、こっちは薄汚れたあんたを拾ってやったっていうのに、恩をあだで返されるとは思わなかったよ! ごたごた言わずに出ておいき! それとも何かい? ほんとうに娼館に売られたいのかい!?」
「すっ、すみません……っ」
ああ、またやってしまった。
アナスタシアは頭を垂れて、少しだけ落ち込んだ。
その気がないのに人を怒らせる。良かれと思ってやったことが裏目に出る。すべては自分が世間知らずなせいだということは、ここで働くようになってから薄々感じていたことだった。
花瓶を割ってしまったのは、廊下を掃除していたとき通りがかった客に「おい! そんなところにいると邪魔だぞ! 俺様が通るんだから道を開けろ」と突き飛ばされたから。弾みで花瓶にぶつかって、あっと思う間もなくけたたましい音が鳴り響き、真っ赤な顔をした女将がすっ飛んできたというわけだ。
この宿屋に拾われて二週間。女将のダリヤはこれまで小さなミスは目をつぶってくれていた。彼女は決して悪い人ではないと、アナスタシアは思う。世間と物を知らず、失敗してしまう自分がいけないのだ。
これ以上迷惑を掛けられない。それこそ恩を仇で返すような行為だと思った。
「……出ていきます。今までお世話になりました」
アナスタシアに纏めるべき荷物などない。ぼろぼろのポシェットを腰に巻き、そのへんの商店にちょっと買い物に行くのと何ら変わりない出で立ちで、彼女は宿屋を去ったのだった。
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