三話:九

 あちこちで焚かれた篝火が道観の山門を照らしている。空の濃い闇は押しのけられ、円雲観の周囲だけ昼間のように明るかった。


 鐘の音と混乱はようやく鎮まってきたものの、門弟たちは煉丹炉を襲って丹薬を奪った賊をまだ探していた。当の賊である暮白ムーバイは、建物の影でそれをやり過ごしながら布に包んだ剣を担ぐ。この状況で円修祖師を捕えようとするのは明らかに無謀だが、勝算が無いわけではなかった。――安玖アンジウさえいなければ。

 てっきり安玖は文雨ウェンユーと共に度生司に戻る方を選択すると思っていたのに、意外にも円雲観に残ると言い出したのだ。どういう心境なのか分からないが、これなら無理やりにでも戻らせれば良かったと遅い後悔が込み上げる。


「なんでこちらに残ったんですか?」

 抑えた声で背後の男に問うと、優しいようにも胡散臭いようにも見える笑顔が返ってきた。

「俺たち仲間じゃないですか。こんなところに一人で置いていけませんよ」

 本気でそう言っているように見える分、逆に怪しかった。

「別に……仲間ではないと思う」

「え? 悲しいなあ、同じ罪人なのに。まあ確かに俺は死罪じゃないけど」

「罪人仲間がいて嬉しいですか?」

「少なくとも俺は嬉しいですよ」

 最悪だと思ったが、真面目に返答するのが面倒になった。黙っていると相手は勝手に喋り続ける。


「本当のところ、シェン道長、なにか隠してますよね? だから残ったんです。詮索するのは嫌いですが、あなた一人を残して逃げ出されても困るし」

「私は逃げたりしませんが」

「どうだか。陳易チェンイーって人が逃げ出せたなら、沈道長だって逃げられるかも」

「……そうだとして、大夫だいふに関係ありますか?」

「あります。あなたがいなくなったら仕事が大変になるし王靖殿に怒られる」

 言って、安玖は表情を微妙に歪めた。軽薄さの裏にある暗い目つきに、彼が自分を疑っているのだと悟った。

「で、円修祖師に会える手段が何かあるんですよね? でないとさすがに、一人で残るなんて言わないでしょう」

 暮白は溜息をつき、安玖から目を背ける。彼の察しの良さと計算された無神経が少し腹立たしかった。


「……確実な手段ではないし、大夫だいふの身の安全は保障できない。それでも残りますか?」

「逆に今まで、身の安全が保障されてた時ってありました?」

 安玖は呆れたように問い返す。その態度に眉をひそめ、彼が身を隠すために被っていた浄身布を無言で剥ぎ取った。

 薄闇でよく見えないが、安玖はぎょっとしたようだった。それに少し胸がすく思いがする。

「え、ちょっと、見つかるじゃないですか!」

「構いません」


 焦る安玖の腕を掴み、堂々と建物の陰から出た。周囲を見渡し、すぐそばに松明を掲げた門弟の男を見つける。躊躇わずそちらへ足を向けると、安玖が狼狽したように囁いてきた。

「あの、俺やっぱり帰りたくなってきたかも……」

「今さら遅いです」

 小声で言い争いながら自分の被っていた浄身布も剥ぎ取って捨てる。乱れた白髪が篝火に照らされ、門弟は暮白の異様な風貌に気づいてこちらを見た。じろじろと白髪を眺め、探るように眉をひそめる。

「――誰だ?」

 松明を突き付けられ、眩しさに目を細めて足を止めた。

「……沈道長、どうするんです?」

 背後で所在無さげに立っている安玖を一瞥し、自分の袖を捲った。慌てて止めようとしてくる安玖の手を振り払い、門弟に自分の腕を突き付ける。


 手首の黒い刺青が露わになり、松明の炎に照らされて濃淡を変えた。手枷のようなそれはあからさまに不穏だ。

 怪訝に暮白を見た門弟の男は、刺青に気づくと、徐々に驚愕と興奮を露わにした。その態度に、当たりかもしれないと胸の内で思う。


 少しの間、探り合うような沈黙が落ちた。先に口火を切ったのは向こうだった。

「――あなた方は、もしや、度生司の?」

 門弟の男が低く囁いた言葉に安玖が息を呑むのが分かった。暮白は平静を取り繕って口を開く。

「私は度生司の沈暮白だ。円修祖師にお会いしたい」

 男は目を瞠り、忙しなく刺青と暮白を見比べた。安玖が何か言いかけたのを、脛を蹴って止める。彼に余計な口出しをされたくなかった。

「以前の……荷華仙女の誘いに乗ると、伝えてもらえれば分かるはず」

 慎重に言葉を選び、暮白は刺青を見せつけたまま淡々と告げた。


「――私を、度生司から抜けさせてほしい」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

九泉に沈む 陽子 @1110

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画