犀川事件(1)

こんにちは。あなたが例のお嬢様ですか。ああ、いつものお爺さんですか?あの人は僕の上司です。今日も小噺を聞きに来たんですよね、はい、お話のメモをもらっていますので、是非ともお伝えいたしましょう。


えーっと今回のお話は犀川事件、1929年に現在の海津市で起きた現地住民と警察の衝突事件についての物語みたいですね。んんっ、ごほん。話は江戸時代に遡るのじゃが。メモにそう読めと書いてあるので。美濃藩の南の方を流れちょる木曽三川中流域は河川の水位より土地の標高が低くなっとって、「輪中」っちゅう円形の堤防で囲まれちょる村があるっちゅうことは、今時の若えモンなら小学校の社会の教科書で習うじゃろうから詳しく説明する必要は無いじゃろうな。


えーっとここまでの話を要約しますと、現在の岐阜県海津市にあたる地域には「輪中」と呼ばれている丸い堤防で囲まれた居住地域がありまして、大抵の場合、輪中は周囲を流れる河川の水位よりも標高が低い場所にあり、しばしば水害に苦しめられていたという物語舞台の背景情報を説明しているんですね。


治水工事っちゅうもんは川を曲げちゃり、止めちゃりする途方もねえ工事やもんだから、たくさんの奴が死によるし、今まで通りなら起きんかった水害のリスクを背負わにゃならんことになる。そもそも薩摩の金だけある素人どもに木曽三川の治水工事なんかを任せたのが間違いや。長良川の水位が上がって犀川に逆水するよう成ってまって、ほんで犀川事件が起きてまってん・・・ってちょっと待ってください。なんですかこのメモ。


あまりにも読みにくいですし、なぜ犀川事件が起きたのかが微塵も読み取れませんので、1から整理しなおしますね。


木曽三川とは木曽川・揖斐川・長良川の3本の川のことで、これらの3本の川は300年くらい前まで現在の岐阜県海津市にあたる地域で1本に集約されていました。そのため水位がバカほど。失礼しました。水位が尋常で無く上昇してしまい、海津地域一帯では水害が相次いで発生していたのです。そこで江戸幕府は薩摩藩に木曽三川の分流工事を命じました。


1本にまとまってしまっている3本の川を、3本の流れに分ける工事。水路を作って川の水位を下げたり堤防を補強して輪中の安全性をより高めたりするだけの簡単で対症療法的な工事では許されず、川の流れを変えたり止めたりする必要のある、抜本的で莫大なお金が掛かる治水事業の実施が確定。負担は全部薩摩藩持ち。参勤交代制度の成り立ちを考えれば分かる通り、幕府は薩摩藩を窮乏させようと、あれこれ無理難題をふっかけるんですよね。


ところで上司のメモに書かれていた「素人ども工事なんかを任せた」ことは半分正しくて、幕府は薩摩藩に対して治水事業に従事する大工の雇用を禁止していました。たとえ指揮役が専門家だったとしても、働き手が素人なのでは素人に委託された工事であるも同然です。そして薩摩藩にとっては幕府の命令だけで無く、現地住民の態度や対応も厄介事の種でした。


まず、輪中の中に住む人々は基本的に治水工事に反対します。少なくとも江戸時代の治水工事といえば陸地を削って新たな水の通り道を開拓する工事と同義です。治水工事をすればするほど必然的に、その地域の陸面積が減少するので、地主層を中心に現地住民は猛烈な反対の態度を取るようになります。特に水路の引き込み先となる地域の住民は、今までは水路が存在しなかったために背負わずに済んでいた余計な水害のリスクを否応なく抱えることになってしまいます。治水工事をするぞと言われて、そうですかと安易に承諾するメリットは、現地に済む方々には無いのです。


しかし薩摩藩の人々は頑張りました。見事に木曽三川を河口まで3つの流れに分割し、ある程度水害を減らすプラスの効果をもたらしたのです。しかしながらこの工事を通じて薩摩藩は多大なる犠牲者やとんでもない費用を払い、工事の総括役を担っていた平田靭負ひらたゆきえを始め、責任者の面々は相次いで自害してしまいました。この治水事業は施工地域の水害リスクの低減に貢献している一方で、残念なことに、また別の水害のリスクを高めてしまっているのです。それが犀川流域、現在の本巣市に当たる地域でした。


宝暦治水の工事を経て長良川の水位が上昇し、それが長良川の支流の一つであった犀川に流れ込んで逆水し、本巣郡ではたびたび氾濫が起きてしまったのでした。この水害のリスクを低減するための治水工事計画として、本巣郡の南に位置する海津郡の中に水路を引き込む計画案がたびたび提案されるのですが、墨俣町の住民を始め現地の方々の根強い反対に遭って延期。延期。延期を繰り返しつつ、その場しのぎの水門設置などによって対処していましたが、ついに19世紀半ばになるまで根本的な解決策が実施されることはありませんでした。


もちろん19世紀、近現代に入ったからと言って、現地住民の反対意識がなくなるわけではありません。とまあ、今日の話はここまでにしましょうか。ちょっと上司にもっと読みやすくて分かりやすいメモを書いてくれって叱ってきますね。

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昔語り Athhissya @Ahhissya

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