信長のやり方

これはまだ、信長様が岐阜城を拠点としていた頃のこと。殿は美濃国のどこかにある世に珍しい「座った地蔵」を探せという命を私に与えました。奇妙な任務です。ですが私は快諾しました。難しいことは考えないサルなので。


地蔵菩薩と言えば、あちこちの道脇にぽつんと立っている石像が一般的なイメージだよなぁ。あ、ほら。手を合わせて頭つるつるの穏やかな顔をして立つ仏様。あとは水地蔵とかで赤いよだれかけを身に着けてるお地蔵さまもいるよなぁ。


座る地蔵菩薩を探して岐阜のあちこちを歩き回りまして、ついに見つけたのは小熊(現在の羽島)にある一乗寺。坊さん1人で切り盛りする小さな寺に木造地蔵菩薩坐像があるらしい。殿にこの調査結果を報告したところ、忽ち城下の町に移転させよとお命じになった。


僧は頑固に移転を拒否したので、殿は焼き討ちを強行した。


「奪い取った宝物は売り払っても構わん!」


すると、地位ある武士から下賤な足軽までが必死になってそれはもう丁寧に、しかし迅速に燃え盛る寺からあらゆる宝物を盗み出しまして。しかし寺の奥にあった仏像達は救出が間に合わず。すっかり炭と灰だけになってしまった慈恩寺の跡地には木造小熊地蔵菩薩坐像だけが何故か焼けないで残っており、信長様はこれを伊奈波山の麓に移転させなさった。


一乗寺、改め慈恩寺の僧は当然この処遇に異を唱え、信長様に直談判した。


「我が寺の地蔵様が、小熊に帰りたいとおっしゃっておるのです!」


「ならお前が超して来たココが今から [小熊] だ。それでいいか?」


「なっ、なんたる横暴!良いわけなかろう!仏罰が下るぞ!」


そんな捨て台詞と共に、お付きの者が僧を追い出した。彼は直談判を許されるまで殿のお住まいの門前に居座り続けると宣言し、殿がその願い出を受けたのは座り込み開始から2日目のこと。そこまで必死になっているのは、彼が慈恩寺を守るただ1人の僧であること。焼き討ちのうえ移転させられたせいで、財産も進行の地盤も失い、生活がもはや維持できなくなってしまったからだ。しかし、殿にはそんなこと、始めから予想が付いていた。慈恩寺の僧は知らなかったが、既に殿は手を打っていたのだ。


殿は私に対して、領内に「信長様が連れてきた小熊地蔵菩薩座像は火災を免れ、これを拝む者には火難除けや延命長寿の御利益がある」という噂を流すようお命じになった。後半の情報はまったくのデマ。殿の思いつきとかそんなものだろう。しかし、理屈が通っているように見える都合のいい噂は民衆の耳に届いてあっという間に広がり、小熊地蔵は「木造小熊延命地蔵菩薩座像」と呼ばれるようになったのだ。この噂のおかげで慈恩寺は復興。むしろ以前よりも規模の大きい教団が形成された。そして1度追い出されてからも、なんども談判に来ていた慈恩寺の僧も、だんだんと静かになっていった。


これで弱ったのは慈恩寺の通り向かいにある大きな寺院、本願寺東別院の僧たちである。実は信長様の狙いは最初からここにあったのだ。領内の宗教勢力の親玉のようなポジションであったこの寺院のすぐ側に、対抗馬となる潜在能力を秘めた寺院を設置しようと考えた殿は、その駒に小熊地蔵を持つ一乗寺を選んだのだ。思惑通り、力を付け始めた慈恩寺は東別院と互いに牽制し合う関係になり、殿が宗教勢力の拡大抑制のために干渉する手間が省け、領内用の軍事リソースに余裕が生まれたのです。


同年9月。殿は足利義昭様を奉戴して上洛なさりました。圧倒的な勝利でございました。それもそのはず。殿は持てる限りの軍事リソースをほぼ全て上洛につぎ込んだのですから。しかも、その準備段階には殿の謀略を以てして、「誰も不幸にさせない」で自分に都合の良い政治的状況を作り出したのでございます。


これこそ信長様のやり方なのでございますよ。

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