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 最後の願いを使ってしまった――。

 頬に伝う涙を、悪魔の指が拭った。

「触らないで! これで現世でのわたしとあんたの縁は切れたのよ。わたしが寿命を迎えるまで、わたしと娘の前に現れないで!」

 こうなったら百歳まででも生きてやる。わたしが長生きしたぶんが、娘から悪魔を引き剥がす時間になるのだ。わたしが死んだ時点で梨央も高齢ならば、残りの願いを使わずに逃げ切ることができるかもしれない。

(わたしは悪魔から逃れることができなかった。でもせめて、梨央だけはちゃんとした人生を歩ませてあげたい。何度でも何度でも、人生を味あわせてあげたい)

「寿命まで、な」

 悪魔は低く笑う。

「何がおかしいの」

「悪魔と契約した者が、天の定めた寿命をまっとうできると思うのか?」

「……ファウストは百まで生きたわ」

「ゲーテの『ファウスト』は、実在した魔術師であり錬金術師でもあるヨハン・ファウスト博士をモデルに書かれた劇詩、つまりフィクションだ。百まで生きたというのはゲーテの創作で、実際の寿命は六十ほどだ。――そして博士の真実の末期まつごも、詩劇『ファウスト』とは当然違っている」

 本当のファウスト博士の末期を教えてやろう――悪魔はそう言った。

「博士が結んだ契約の代償は、二十四年後に魂を引き渡すというものだった。その二十四年目の約束の日。博士の部屋を訪れた者が見たのは、おびただしい血海に浮かぶ二つの目玉と散乱した歯のみだったのだ」

 悪魔はわたしの耳元に口を寄せ、囁いた。

「母親の死にざまを思い出してみよ。ファウスト博士と似たようなものだっただろう?」

 ぐわん、と視界が揺れ――気づけば悲鳴をあげていた。

「そうか。お前は見なかったのだな。西森は執拗に頭を狙ったのだ。何度も何度も。俺は後部座席にいたのだがな。バックミラー越しに見た、奴の恐怖に駆られた顔は見物だったぞ」

 あまりの衝撃に、物理的に殴られたように頭の芯が痺れている。身体全体がわなわなと震え、何も考えることができない。

「……あなたがお母さんを殺したの……?」

「手を下したのは西森だ」

「そうするように、仕向けたんでしょう!!」

「もともと西森は悪魔おれに魅入られる素質があったのだ。お前の監禁だとてな、あれは奴のかねてからの願望だ。自分の好みの女を囲い、誰の目にさらさず、永遠に側に置きたいという。ただ――実行することはなかっただろうがな。お前に関わらなければ」

 悪魔はあたしに意味ありげな視線をくれた。

「だから言っただろう。あの男はやめておけと」

(……あたしが西森と付き合ったから……)

 母の死は――あたしが招いたことだったのだ。

 悪魔はあたしの心を読んだように、「そうではない」と言った。

「遅かれ早かれ、公香は非業の死を遂げる運命にあったのだ。悪魔と契約を結ぶとは、そうゆうものだ。まっとうな末期まつごを迎えることはできない。他人事ではないぞ。おまえだとて同じ立場だ。三つ目の願いを叶え終え次第、すぐにでも契約者にふさわしい最期を迎えることとなるだろう」

 悪魔はそこで一度言葉を切ると、あらためてあたしに視線を据えた。

「だが、そんな恐ろしい運命が待ち受けていると知りながらも、おまえは娘の為にならば最後の願いをせずにはいられないのだろう? 母親とはそうゆう生き物らしいからな。お前の母親もそうだった。母親だけでない。おまえの祖母も、その母も――俺たちの娘だとて、きっとそうするだろう」

(俺たちの娘……?)

 怖ろしい予感に、頭の中で警鐘けいしょうが鳴る。

「……何を言ってるのよ。梨央は……」

「こんなにも美しいお前の娘が、あんな凡庸な男の子供だと思うのか?」

 全身が震撼した。血管という血管が凍りついたようだった。

 梨央は、この悪魔との交わりの子だというのか。

「梨央だけではない。おまえも公香も、なのだ。公香の母も、その母も――子々孫々、連綿れんめんと続くその血と肉と魂、すべて俺のものだ」

 そんなわけがない。

 そんなおぞましいこと、あるわけがない。

「おまえは図書館で悪魔おれに目をつけられたと思っているのだろうが、そうではない。俺はお前が産声うぶごえをあげる前から、自分がお前のことを欲っすることを知っていた。……愛しているよ、おまえも。おまえの母親も。――おまえの娘も」

 茫然と立ち尽くすわたしを、悪魔は愛しげに見つめた。

「ではしばしのお別れだ。なあに、すぐに会える」

 またな、と悪魔は顔を寄せてきて、わたしに口づけした。その姿は残像のように霞み、やがて黒く荒いもやと化した。

 もやはわたしの胸や肩のあたりを惜しむようにたゆたい、やがて完全に消えた。


          ――了――

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魔憑筋 うろこ道 @urokomichi

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