3

(この悪魔ひと――こんなに、怖いものだっただろうか)

 違う、この悪魔が恐ろしいのではない。娘がこの悪魔と契約を結んでしまったことが恐ろしくて、こんなにも震えがとまらないのだ。

「……娘だけは見逃して。お願い……」

「それはできぬ話だ。梨央はすでに悪魔おれと契約を結んでいるのだからな」

 わたしは悪寒おかんに身を震わせながら、何度も何度も唾を飲み込んだ。意を決し、悪魔を真正面から見据える。

「なら、三つ目の願いを使うわ。それで梨央との契約を無効にして」

「それもならぬな。願いを使って他者の契約に干渉することはできない。これもだ」

「そんな……」

 頭の中が真っ白になり、つかのま意識が遠のいた。それを引き戻したのは、悪魔の言葉だった。

「それができたなら、とうに公香きみかがおまえを俺から解放していたはずだ」

「――え?」

 突然、母の名が出てきて、わたしは呆然とした。

「お……お母さんも……悪魔と契約していたというの……?」

 悪魔はにやりと笑う。

 その瞬間、周囲の音が何もかもとまったような気がした。

全身がおこりのように震えだす。

 ――何でも言いなさい、何でもしてあげるから。

 母の言葉が脳裏によぎった。大学から帰ったわたしに温かなお茶漬けを出してくれた、あの時。母は気づいていたのだ。食卓の自分の席に悪魔が座っていることに。

 どうして母は悪魔を見えないふりをしたのだ。もし言ってくれたのなら、一緒に悪魔と戦うことだってできたはずなのに――。

「おまえの母は娘と問題を分かち合う気などなかったのさ。おまえには何も知らせずに、自分だけでなんとかしようとしたのだ。使

 あたしは恐怖も忘れて悪魔に組み付いた。

「どうゆうことよ!! お母さんが、わたしのために願いを使ったっていうの!?」

「――それだ。おまえがそんなふうだから、相談などできなかったのだ。母が願いをおまえのために使うと言ったならば、必死になって阻止しただろう? 公香はおまえに邪魔されたくなかったのだよ」

 悪魔はあやすようにあたしの頭をぽんぽんと叩いた。わたしは歯を食いしばって悪魔を睨み上げ、突きとばすように離れた。

「……お母さんは、最後の願いに何を言ったの」

「あの日――悪魔おれが娘に憑いていると知った公香は、願いを使っておまえと俺の契約を無効にしようとした。おまえと同じようにな。だがそれはかなえることができない。ならばせめてと、を願ったのだ」

 ――だから、あの日から悪魔が現れなくなったのだ。

 十八年前、突如として悪魔がわたしの前から消えたのは、契約主わたしを抱いたことへのペナルティなんかではなかったのだ。

「公香は賢い女だ。おまえの前に俺を現れなくさせることで、俺に願いをかなえさせまいとした。願いを三つ叶え終えなければ、悪魔は契約主を手に入れることができないのだからな。……そもそもおまえは最初から最後まで母親に守られていた。あの忌々しいカトリックの高校に入れたのも俺を恐れてのことだろうしな」

 悪魔は校舎内でのことを思い出したかのように目を鋭くした。

「だがせっかくの願いも、公香が死に、悪魔おれのものになったことで効力は消えた。俺が再びお前の前に現れることができたのはそのためだ」

 ――お母さんが、悪魔のものになっていただなんて。

 涙が溢れ、視界がゆがんだ。母が亡くなって十八年。この悪魔に、十八年も所有されているのだ。どんな状態で所有されているのか――考えてしまうと、気が狂いそうになる。

 悪魔は涼しげな顔でわたしに目を向ける。

「公香の死後、すぐにでもおまえの元に行きたかったのだが――おまえの腹に子がいるとわかったからな。待ってやることにしたのだ。その子が育つまで」

 悪魔は梨央を見て目を細めた。梨央は身動ぎひとつせず眠っている。

「しかし公香の算段は正しかったな。俺を引き剥がしたことで、おまえは西森の死を願わずに済んだのだから。このまま三つ目の願いを使わずにいけば、寿命まで逃げ切れるかもしれんぞ」

(……わたしは逃げ切れるかもしれない。でも、梨央は?)

 わたしの最後の願いを使えば、梨央から悪魔を引きはがすことができる。だがそれは、わたしが死ぬまでの間のみだ。この体と魂を悪魔に捧げても、悪魔から梨央を完全に解き放つことにはならない――でも。

 わたしはかたく目をつむった。涙がぼろぼろと頬を伝う。

 母と同じ願いを願わずにはいられなかった。だって、わたしにはこの子しかいないのだ。

 唯一、自分より大切な存在。この子の人生のためならば、死後の永久とこしえの時間を引きかえにしたって、まったく惜しくないのだ。

「三つ目の願いを言うわ……。梨央の前から消えて」

 悪魔は嗤った。

「承知した。――おまえは永遠に俺のものだ」

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