第5話
大きくなって高速で血管を伝って身体を駆け巡り回る黒いもやに、私はまた睡眠を妨害された。
なんとなく目が痛くなってくるくらいに。
「……あぁっ」
低い天井へ向かって呻く。すん、と天井が声を吸い取ってゆく。
なかなか同じ位置で静止して目を閉じることが出来ず、二十秒おきに態勢を変えながら何とか目を閉じようとして、結局開けてる。
二月上旬だというのに、いよいよな暑さで、毛糸のパジャマが汗で肌と擦れ合って、腹の辺りが痒くて仕方がない。
結果、目が冴え続ける。
「……ああああっ!」
思わず私は布団を跳ね除けた。
刹那。
「どっからどっからどっからどっから、つづらつづらつづらつづらのおやまおやま」
――え?
汗が一気に蒸散した。
山中の静けさが一気に仏間を飲み込む。
「……兄貴? ……起きてるの?」
だが、時計の針の音が規則正しく聞こえるだけで、兄の声はおろか、布団が動く音も寝息も何も聞こえない。
ガサガサガサガサ
小動物でも歩いているのか、葉と葉が擦れる音が直接外と面していないここからでも聞こえる。
――それにしては近いかな。
ぴゅぅぴゅぅ吹く風の音に耳を澄ませていると、急激に瞼の力が抜けていった。
今日もいつもの時間と三十分遅れで起床した。
喉はカラカラ、汗でグショグショ、腹の辺りが少し赤く腫れていた。
そんなに暑かったっけな、と夜の出来事を回想しようと思うと真っ先に、夢の出来事が刻々と蘇ってくる。
勝手に背筋を伸ばし、そのまま急速冷凍させる悪寒と、喉につっかえる飲み込んだ唾液の感覚がいち早く。
夢の内容も思い出してきた。
普段滅多に夢を見ない私が、なぜだか……。
***
夢は、ぼうぼう燃え盛る炎の前から始まった。
百メートルくらい泳いでるような息苦しさを覚え、同時になぜこんなに視線が低いのかと思って地面を見ると、首から下が土に埋まっていた。
ぱちっ、ぱちぱちっ、ごごごぼぼぼぼぼっ、ばちばちばち
火の粉が額に飛んでくる。
――なんでこんなことに?
手足を動かそうとしても、ピクリとも動かない。マッサージ機の倍以上の圧力を土がかける。
ここは山の麓辺りらしく、竹林が目の前に見える。
パチ、パチ
今度は炎とは別の、人が手を叩くような音が耳に入った。
がらがら、がらがら、がらがらがらがらがら
音がずっと鳴り響いている。
じゃっ、じゃっ、じゃっ、じゃっ、じゃっ……ずざっ、ずざっ、ずざっ、ずざっ……
砂利の上を歩く音が土を蹴るような音にグラデーションする。
その足音は、だんだんと近づいてきている。
「あんた、なんで助けに来てんだい?」
全身をゾワッとした感触が取り巻いた。思わず肩を上げる。これが戦慄というものなのかということを知る。
頭上からいきなりおばさん声、いや、それを遥かに超えた濁音ばかりのガラガラ声が降ってきたのだ。まるで人間の声じゃないみたいだし、そういわれても通用するようなほどの、そう、それはそれは醜い怪物のような……。
「……だって」
私はなぜか涙を飲み込んで、必死に言葉を絞り出そうとしている。だが、土の圧力もあってなかなか言葉を出せない。
「だってじゃないよあんた。そんなに殺されたいのかい? 教祖様の教えではミタマのネンの対象以外は殺生しないようにと言われているのに……」
その後も良く分からない、けどただ聞いているだけで身震いが止まらなくなるようなワードを声の主は連発する。
ここからは顔までは見えないが、何やらとんでもない人間だということは身にまとうものを見ただけで分かった。
赤いぼろ布を羽織り、その下には紫色のぼろ布、さらにその下には黒い着物をまとっている。
しわしわガサガサの手からは一センチくらいあろうかというほどの長い、真っ赤に塗られた爪が伸びている。
素足に履いているものは下駄だが、靴底の下からは肉食恐竜の牙みたいな鉄製の物がびっしりと。
――マズい、これは結構マズい。
「……出して、ここから出して」
「ヴあぁァぁん?!」
ライオンが唸り声をあげるような唸り声。
「あんたが自分から命を投げ出しに来たんだろうが。この私にね!」
声の主はしゃがみ込み、私の顎を首が折れてしまいそうなほどにグイッと持ち上げる。長い爪が皮膚に刺さってキリリと痛む。
「……ヴヴ」
声にならない悲鳴。
目の前の人物は妖怪みたいにギョロリとして血走っているカエルのような目をいっぱいに吊り上げさせて、ただでさえ梅干しみたいな顔をさらにしわしわにして、こちらを睨んでくる。
火山みたいに爆発した白髪の一本が目に刺さる。埃臭さと魚臭さがダブルで鼻の粘膜に襲い掛かる。おぞましいことこの上なく、私はギュッと目を瞑った。
そのまま十秒。
何も見えないのはそれはそれで恐ろしくなって目を開けると、目の前ではボロボロの歯を剥き出しにして、野生の猿のような笑みを向けてくる山姥の顔面があった。
首から上がガタガタ道で車に揺られるみたいにガクガク震え始める。
見ただけで悪寒を走らせるほどの鬼の笑みを浮かべたまま、山姥はどこからか何かを取り出した。
ギラリと、光がそれに反射して目に照射する。
それ、の正体は、鉈だった。
「ぐぅぅふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ、ぐぅぅへへへへへへへへへへへへへへ、ぐぅぅひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ」
静かな山の麓に、山姥の高笑いが響き渡った。
ふといきなり首に痛烈な痛みを感じたと思うと感覚を失くした。
鉈で首筋を裂かれたのだった。
それから、どこからか三輪車で大量の土砂を運んできて、それを頭上から振りかぶらせ、私を生き埋めにした。
ぐひひひひひひひひひひひひひひひひひ
高笑いと意味不明の呪文のような拍のある言葉が、かび臭い土の中から聞こえていた。
***
そこで私は目が覚めたのだった。
「……ねえ兄貴、起きて……は」
眠い目をこすって自分の隣の布団を見ると、昨夜までいたはずの人が、いなかった。
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