第4話
「……あ」
目を覚ますと、そこは見慣れぬベッドの上だった。何やら消毒液の臭いがふわふわと漂っている。
「あ、起きた。……奥田さん、喋れますか?」
パーテーションの向こうから女性の声がする。
「え、喋れますけど」
「それは良かった」
出てきたのは、養護教諭の
「何があったか、覚えてる?」
「……ええっと、コンピュータールームで倒れて」
鮮明に握った手の感触と、爆音に狂わされる耳の感触が蘇る。くるぶしが痛くなってきた。
「倒れるまで何があったのか、覚えてる?」
「覚えてません」
勝手に口が動いた。
「ふぅん……」
唇をとんがらせて、平子はうなじをカリカリと掻く。
「まあ、言いたくないならいいけどね」
さすが、定年間際の養護教諭一筋は違った。
――かなり素っ気なく発言してくれて、あまり傷つかずに済んだけども。
「で、倒れてこっちに来てからのことは覚えてる?」
「いや、覚えてるわけないじゃないですか。ずっと寝てたんですから」
「いや、違うのよ。何かね、良く分かんないんだけど……変な呪文みたいなのずっと唱えて暴れてた」
「……呪文?」
まるで別の国の言葉みたいに、全く心に腑に落ちない。飲み込み切れていない。
「そう。じゅごんきょこうだせいばせい……みたいな。仏像みたいな半開きの目でそんなことずっと真面目に唱えて、足と手をバタつかせてた」
自分がそんなことをブッタの顔で唱え続けているさまを想像すると、猛烈な自己嫌悪が津波のように襲ってくる。
「……何ですか、それ」
「いや、こっちが聞きたいよそれ。ひとまず、何も知らないんだよね?」
「そうです」
「……ならもう、お手上げよね」
平子が苦笑する。
「まあ、今元気なら大丈夫でしょう。今……六時間目だから、復帰できる?」
「多分」
「分かった。じゃあ」
と言うが早し、平子がパーテーションを取り除けたと思うと、毛布を剥がされ、慌ただしく保健室を追い出された。
「おう、彩華。大丈夫か? お前。相当ヤバかったって聞いたぞ」
自転車置き場で、またもや龍牙が肩をバシッと叩いてきた。
「別にあんたに心配されることないから」
「いくらヤンキー風でも女なんだからよ、なんかあったって聞きゃあそりゃ心配するだろ」
心の硬い核の部分を、龍の牙は一瞬で叩き割った。
「何、その差別。あんたの思うほど、女は弱っちくはないからね」
頭からマグマが噴き出した。
龍牙の胸をぐいっ、と足で押すと、すぐに私はスタンドを上げ、自転車に跨った。
二月の風はやはりまだ寒く、帰る途中しもやけが痒くて痒くて、最悪の気持ち悪さが胸を掻き乱していた。
「お帰り」
母に返事を寄こすことなく、仏間へ入る。
「……兄貴」
兄は、仏壇の手前で、仏像のような半眼で、足を組んですぅすぅと寝息を立てていた。
「……大丈夫なの?」
ただ寝息を立てるばかりで、全く答える気配は無い。
一体何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか、それどころか生命の維持に関する部分は正常に作動しているのか。
今や、十四年間競い合い、高め合った兄を理解することは私にはもう不可能なことになったみたいだった。
無口だが一生懸命サッカーに取り組み、才能がずば抜けていた私はなぜか動きの悪い兄を追い抜かすことが出来なかった。その鬱憤からよく喧嘩して、私が兄をボコボコに殴っていた。結果、私が母に叱られ涙を流し、兄が私のことを慰めるという始末。
そんな数カ月前までの日常が、今では遠い昔、子宮で泳いでいる時よりも遥か前のことのように感じられた。
――あれ?
ひとまず、横たわる兄の隣から父に一日の報告をしようと思った矢先、私はいつもと微かに違う点に気づいた。
――無い。
父が持っていたヘッドフォンとカセットテープが見当たらないのだ。
――誰かが持ってったのか。
父、奥田
そんな父は、私が生まれて数カ月後、十一月四日に三十三歳でこの世を去った。
父がどんな人だったのか、母はよく教えてくれた。夜のスナックで知り合ったことから、百本のカーネーションでプロポーズしてくれたこと、秋田への新婚旅行、ラジオへのゲスト出演などなど。
しかし、その一方で、父の死因やそれにまつわることは、訊ねても決して教えることは無かった。そのことは訊くな、と有無を言わせぬ強い目線を送ってくるだけで。
そんな父が愛用したヘッドフォンと、父のラジオが入ったカセットテープが見当たらない。物心ついた時から常に仏壇に置いてあったはずなのに。
――おかしいな。
モヤモヤを心に抱え込みながらお鈴を鳴らし、マイクの前で笑う父の写真の方を向いて思いを通わせる。
恐らくその思いは、強大なもやもやに阻まれ、向こう側へ届くことは無かっただろう。
結局今日も、兄は食卓に現れることはなかった。
「今日学校から電話かかってきたけど、大丈夫なのあんた。純平と同じ感じにならないよね」
母の強い視線が私の顔を照射する。
「大丈夫だって。なんかおかしくなっただけだから」
「そのなんか、が怖いんだけど」
言いながら、母はガツガツと茶碗の米をかき込んだ。
「……あのさ、仏壇のヘッドフォンとカセットテープ、あるでしょ」
ピタッ、と箸が止まった。そのまま、じろりとこちらを睨む。
「あれがさ、無いみたいなんだけど……どっか行ったの?」
「そうなの。無いの。なら、お義母さん……あんたのお祖母ちゃんが持ってったのかもしれないね」
「……お祖母ちゃん?」
顔が出ない。母方の祖母は私が生まれる前に他界しているらしく、会ったことはない。父方の祖母は、よく知らない。
――父方の祖母?
「お父さんのお母さんが今日、来たの。ほぼこっちも見たことが無いんだけどね。いきなり来られて、話しかけても何も返事せずに、仏間に入ったと思ったらすぐに出てきて、そのまま帰ってった」
「……なんそれ」
なら、父方の祖母が持ち帰ったのか。
――母さんもほぼ会ったことが無いっていうのはどういうこと? 何もしゃべらなかったのはなぜ?
私の額に、深い皺が彫られた。もやもやの度合いがさらに濃くなってゆく。
――しかも今更、十四年前に死んだ息子の遺品を取りに来ることある? あるなら、一体それはどんな理由で?
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