許さない

 白い天井が見える。自分の家ではない。起き上がると薄い緑のカーテンに囲まれていた。カーテンを開けると、正面、両隣にも同じベッドが置いてあり、そこには六十代後半は過ぎていそうなおじいさんが起きているのか寝ているのかわからない表情をしていた。


 気絶して病院に運ばれたことを理解した。しかしなぜ、あのとき近藤さんの顔が美紀になって僕を襲ったのか。美紀の嫉妬心が恨みに代わってしまったのか。生前の溌剌とした面影はなく、白く濁った目と白い顔はもはや怪異だった。


 私が起きたことに気づいた看護師が医師を呼び、意識を失ったときに頭を打ったから念のため診察したが異常はない、ということを言われた。


「あのように亡くなる方を見れば気を失うことは自然ですからね」


 僕は課長に連絡を入れた。無断欠勤したことを責められるかと思いきや、病院に運ばれたことを知っていたようで、心配の声を掛けられた。近藤さんが突然自殺し、僕が気絶するという状況に、課長も頭が追い付かないのだろう。


 今日は有給休暇をいただくことになり、家でゆっくりするように言われた。心遣いは感謝すべきだが、あの家に帰ることは気が重かった。でもいつかは帰らなければならない。


 大きく息を吐いてドアノブを捻った。部屋の中は相変わらず閑散としている。「ただいま」と言うが当然返事はない。妻との交換日記をつけているときも返事はなかった。


 キッチンに向かうと、テーブルにリングノートが置いてあった。日記だった。机を見ると、日記をしまっていた引き出しだけが空いている。他に荒らされた形跡はない。


 美紀だ――


 表紙を開ける。ページをめくり、一番最後に書いたところまで捲ると、黒くとがった字が罫線を大きくはみ出していた。途端に手が震え出す。


『近藤っていう女に心奪われてんのはわかったでも殺したからもう浩輔は私だけのものでもいつかはまた違う女に心が傾くのはわかってる私と会えない限りあなたは不倫する許せない許せない許さない』


 冷たい風が首を撫でた。ドアも窓も開いていないはず。風というより、細い息のようなものがまた当たった。眼球だけを視界の端に持ってくるが何も見えない。徐々に首を回すと、後ろに誰かが立っている。


 美紀なのか――


 目を細めながら目線を上げていくと、黒々とした影そのものが目の前に立っている。顔と思しき部分は目や鼻といったものが一切ない。しかし、うめき声のような音が影から発せられている。近藤さんに憑依したときの声と一緒だった。


 影はゆっくりと距離を詰めて来る。とっくに脚の力はいらないのに、座り込むことすらなかった。関節が硬直して棒の上にいるような心地だった。


 影は僕の身体と一体化したとたん、両手が首を掴んで異常な力で締め上げた。爪が首の肉に入り込み、血が滴ってくる。ブチブチと肉が避ける音が聞こえる。声すら上げられない。握力は衰えず、トマトのように僕の首の肉が潰れた瞬間、視界が黒くなった。

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亡き妻との交換日記 佐々井 サイジ @sasaisaiji

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