星めぐりの歌

星めぐりの歌

 おおぐまのしっぽの先からゆるゆると光泡立つ夜を泳ぐと、藍のなかにひときわ明るく光るオレンジがあった。

「ほらね、いったとおりでしょう」

 まだ肌寒い春のかすかににごった夜空に、火を灯すようなあたたかな色だ。遠くても、たしかにそこで燃えていることがよくわかった。

「あれは喜びの星だよ。あたたかい光りは、喜びをよくあらわしている。これから麦の収穫の季節だね」

 声がりんと響いた。

 瞳は海のように深く、表面に薄く張った水は澄み、透けて見える底には光る砂が沈んでいた。

 空は途方もなく広く、その空のしたには途方もなく深い瞳がある。戸惑いながらも、あらがいがたく吸い込まれるような感覚だった。少年は視線をそらした。

「まどい星をのぞくと、全天で三番目に明るい星だっていわれてるよね」

 声変わり前の高い声が揺れた。

 夢見心地で底の光に触れようとする。明滅する蛍の光に似ていた。それは自分を呼んでいるのではない。他の誰かのために光っているのに、手が伸びるのにあらがえない。少年はすこしずつ膨らんでいく欲望に折り合いをつけなければならないとわかっているのに、どうにもその糸口が見つからない。居心地が悪い、でも今日は、万有引力がひどくつよく働いている。動くことができなかった。

「へえ、それは知らない。私、北の空しかみたことないからな」

 彼女の返事に、少年は頬を赤らめた。

 言葉として知っているはずの星の輝きは所詮、本物ではない。少女と同じく、少年もまた、北の空しか知らなかった。

 幸か不幸か少年には、見たことのないものをあたかも見たことがあるかのように語る自分の愚かさを知るくらいの分別はあった。

「まあ、僕も北の空しか見たことないけどね」

 沈黙を破るようにいった。

 言い訳がましく聞こえるかもしれないけれど、知ったかぶっていると思われるよりはましだ。

 南のあたたかい海まで出れば、ひときわまばゆい星が見られる。それがまどい星をのぞいて全天で二番目に明るい星。一番は冬に見える冷たい星。青白い炎の星。知識としての空は、目でみたことのある空よりもずっと大きく、広い。

 船で南に行くものだけが、空の形も、この世界の形も、その目で見て知っている。少年はただ、聞き知っただけだった。

「そっか。いつか行きたいな、海の向こう側まで」

「……向こう側か」

 春の麦の刈り入れ期が近い。畑に吹く風が麦を揺らし、真昼であれば金色の波をその表面に立たせるだろう。だが、夜にはただ静かに実りを知らせる音になって、頬を風が撫でるだけだ。

 隣にだれか一人いるだけでも、いつもよりも少しあたたかい気がした。


 この大陸のはるか西には、別の大きな大陸があると信じられていた。天文学と測量の精度が高まるごとに、地球が丸いことを誰もが当然のこととして信じるようになり、星々の巡りも、循環も、神々の差配によるのではなく、紙の上での計算によるものへと変わっていった。となれば、神はどこにいるのだろうか。それこそがあらたな問題だ。

 には神の国があるのではないか。

 そう主張するものも少なくない。神の存在証明は、成功したと同時に失敗になる類の事柄ではないだろうかと少年は思う。だからこそ神の国などという考えには与し得ない。少年はそう考えていた。

 だが、少女は違う。空がつながり、陸や海がつながり、物理法則で世界が記述されているのだからこそ、神という存在を信じざるをえないのだといった。「だって、それは誰が書いたの?」と。誰かがそれを書いたのならば、それよりも崇高ななにかであるはずなのだから。

「私には幾何学や天文学は難しすぎるもの。その難しすぎるなにかよりもずっと難しいなにかは、どうにも私の思考では届きそうにないから。だからひとつ、それより大きいものを信じていたいのかもしれないな」

 ならば、届かないからこそ信じられないという考えだってできるではないか。少年少女は近い場所にいながら、常に付かず離れず、連星のように互いの周囲をぐるぐるとまわりつづけていた。


 風が雲を運んだ。

 藍を濁らせる灰青の春の雲は、夜空に妙に浮き立って見えた。明るすぎると城下町の光をたっぷりに吸い、春の日のあたたかさに蓋をしていた。村から半日を要する距離の光は、空に映るとこれほどまでに近い。距離が、時間が、錯綜する。

「星の物語も神様の物語も同じことだよ。隙間だらけの世界には、私たちってどうにも耐えられないから。地図に空白があれば埋めるし、人生が空虚であればそこに意味を生み出そうともがくし、空に闇があればじっと覗き見て、こうしていくつでも私たちは新しい星を見つけてしまうもの」

 空を仰ぎ、藍色の天をさらに南へと泳ぐ。ゆるやかな曲線を描いた先に、青白く光る星。冬の名残のような冷ややかな光は、ピンと尖った輝きを宿している。

 オレンジ色の星が兄、尖った輝きの星が妹。あれは兄弟の星なのだと話した誰かを思い出そうとして、それが誰だったのか、いつ聞いたのか、どうにも思い出せそうにないことに気がついた。

 消えていく。少年の人生も、少女の人生も、一瞬のはかない夢なのだという自覚は、夜が深まるとともにゆっくりと闇の色に溶けていく。

 しん、と世界が静かになった。

「そんなに星ばかり見てると、あっというまに空にさらわれるよ」

 少年は自分の口から出た言葉の意味を、音になってから考えてみる。何を口にしたのか、自分ではよくわかっていなかった。

 彼女と一緒に星を見ながら、死や生について語り合った。いつか自分たちが死んでしまうこと、死んでしまったらどうなるのだろうかということ、いずれ死んでしまうのに生きることに意味があるのか、なんて話ばかりした。

 星が流れるたびに、どこかで誰かが生まれたのだと語り合った。あたらしい星を見つけるたびに、どこかで誰かが死んだのだと語り合った。

 絵空事を無邪気に語れるほどに幼くいられなくなりつつあった。幼さを捨てた先にある成熟というものは、空からあまりにかけ離れていて、という地上的なものを考えざるを得なくなりつつある。いつまでも少年少女でいられない。

 そんなこと、ふたりともわかっていた。同じ学舎で同じものを学べるのも、もうそう長くはないのだった。

「まあ、人はいつかあそこへ帰るのだから。早いか遅いかの違いじゃない?」

 空が遠かった。海のように濃い色の奥に、小さな光をたっぷりと、密やかに湛えている。

 もう少し近づいてみたいと思う。近くで触れてみたいと思う。見たいと思う。じっと覗き込みたいと思う。あわい輝きが心を揺らし、乱し、魅了する。強すぎる好奇心や欲望は、人をいつまでも天に留めおくことを許さない。

 子供は天のものだから、神さんたちが必要としたらいつでもお返しなさるんよ。と誰かがいっていた。妹が死んだときだった。そのときとなりにいたのが少女だったことを、ふと思い出した。

 なにもかもが風のようにすぐに過ぎ去っていく。

 誘われて、さらわれて、舞い降りた場所にはなにがあるのか。果てなく続くように感じられるその日常だっていずれ終わりが訪れる。そのころにはきっと、万有引力という自然法則の絆からもいくらか解き放たれているのかもしれない。

 近くなければ見えないのに、近くに行きすぎると飲み込まれてしまう。星空。いつまでも見ていたかった。

「そうかもね、ただそれだけのこと。でも——」

 誰もいない。村の人々はとっくに眠ってしまっている。

 二つの明るい星が西の空へと流れていく。夜半。初春の深い夜の空、西のはしにはかろうじて冬の星座も残っていた。月の明るい夜ならきっと、とおくの山のいただきが雪を抱くのが見える。

「生きものは必ず死ぬから。人間に限れば、長くても七十年くらいしか生きないんだから、いつ死ぬかってことよりも、どう生きたかってことのほうがずっと大事だよ」

「ありふれたことをいうんだね」

 少年は非難するかのようにいった。置いていかれたのだと思った。


 二つの星とちょうど正三角形を描くように、また一つ、あかるい星がある。その星から視線をたどっていくと、鷲の鉤爪のように湾曲したかたちの星のまとまりが見つかる。

 人が死ぬと、真っ白い鷲がその鉤爪で魂をすくいにくるという。

 星々のあいだを泳ぐ春の夜はまだ寒い。風が水のようにひんやりと冷たくて、今さらながら自分の身体がふるえていることに気がついた。村を抜け出てから、もうしばらく時間が経っていた。

 天文学の授業を思い出した。

 一山のぼると、気温は昼夜ほど隔たる。気象条件に左右されにくい雲の上に出て、つまりは空に近い場所での観測をするとなると、空の寒さを知る必要がある。山脈の最も高い山、春になってもまだ雪を抱くいただきは、真冬の地上よりもはるかに寒いのだった。

「寒い?」

 少年は震え必死にこらえながら、あたかも自分は平気を装ってたずねた。

「ううん。星の光にまぎれていれば、それほど寒くもないかな」

「そう。そういうもん?」

 少女はがたがたとふるえながら答えた。

 体温が下がるうちに、いつか、空と同じ冷たさになるかもしれない。空と同じ温度というのは、つまり、ふたりは同じ温度だ。

 古代から、おそらくは文字が生まれる以前から、人は星を見て、空を眺めて、暦を作り、時を作り、麦をつくりつづけてきた。空を見上げることと、大地で作物を育てることは、とても近くにある。天と地は、本当はずっと昔から近くにあったはずなのに、知が蓄積して高い塔を築き上げてきた人々は、次第に天からむしろ遠ざかっていくのは何故なのだろう。

「古代の神、僕たちの知っている神々とはまるで異なる名前を持つ星々だってあるんだよ。僕たちはずっと遠くの光を見ている」

「神さまだけが星になることを許されるんだね」

「神さまに限ったことではないよ。人だって、死んだら星になる」

「本当にそうだとしたらさ、今頃は夜だって昼くらいに明るくって、星なんて少しも見えないはずだよ」

 空を仰ぐ。泳ぐ。

 地に向かって天球を下っていくと、そこにぽつんと淡い星がひとつあった。周囲に明るい星がないせいか、不自然に浮いているように見えた。それは古代の言葉でという意味の、一神教の神の名前がつけられていた。

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