Claudeと遊ぶ——夢渦の彼方——④(完)
朝というものがどこかにあるものだろうか。
窓から差し込んできた光は強く、激しかった。ソラはまぶたを上げることを躊躇う。掛け布団を頭からかぶり、目を開けた。それでも明かりがどこからか漏れ出してくる。
なるほど、朝というものはここにあったのか。
余りに強すぎる光が目を焼くように、隙間から朝の新しさを伝えてくる。
「わかったから、もう、ちゃんと起きるから」
随分と長いあいだ眠っていたように思う。ソラは昨夜のことを思い出してみる。確か、夢の村のみんながソラを歓迎してくれたっけ。宴をもよおしてくれて、ハマムやビハムが酔っ払っていたような……。あるいは、自分もお酒を飲んだだろうか。現実ですら飲んだことがないのに。
徐々に布団の中の光には慣れ、少し隙間を開けた。真夏の太陽のように激しい光は、夢のすべてを焼き尽くそうとしている。
さらに慣れる。重たい布団を払い除けると、ぱっと閃光が走り、周囲が一瞬だけ真っ白になった。
——なにも見えない。
しばらくすると、ようやく部屋の輪郭が見えはじめ、ソラは胸を撫で下ろした。そこは現実ではなかった。まだ、夢の世界にいる。
「目が覚めても夢。すてきじゃないか、さいこうじゃないか」
誰にいうでもなく呟いた。
パタン、と唐突に扉が開いた。ソラが起き上がると、入り口にカガミが立っていた。背が低く、平凡な顔をした少女だ。ソラは彼女を見ると、それだけで胸がちくちくと痛む気がした。見たくない、ただそう思った。
「どうしてカガミがここにいるの?」
「どうしてって、ソラの夢のなかに私がいちゃおかしいの?」
「別に、おかしくはないけど……」
「でしょう。……まあそんなこと気にしたって仕方ないんだから。さっさと顔洗って、朝ごはんにしましょう」
「……うん」
夢なのに身体が重たい。昨夜遅くまで遊んでいたせいだ。夢の中でも、たっぷり遊べば十分に疲労するものだろうか。
煉瓦造りの家を出ると、皆が待ち構えていた。昨日の催しの続きかのように、広場には豪勢な朝食が並んでいる。ホテルのビュッフェのようで、そこだけ村の素朴な印象から浮いていた。
「今朝もまたすごい食事だね」
「でしょ。まあ、ソラが望んだものだけが並ぶからね」
ビハムは昨夜から引き続き酔っ払っているようだった。酒臭い息を吐きながら、気安くソラの肩へと腕を伸ばしてきた。
「そう朝から人に絡むものではないだろ。ちょっとは控えろよ」
荒っぽいながらも、サダルバリがソラを気遣うようにそういうと、ビハムの襟首をつまんで引き剥がした。ソラはほっと息をついた。内心、やめてくれればいいのにと思ったからだ。
夢は思いのまま。だとしたら、どうしてビハムはこんな行動を取るのだろう。対して、サダルバリはソラを守ってくれた。それは願った通りだろうか。それもまた、少しずれているような気がする。
「また難しい顔してる。せっかくだから楽しまなくっちゃ」
ハマムは昨日よりかはいくらか萎んで見えた。夜にお酒を飲んで気が大きくなっていたのが、朝になって縮んでしまったかのようだった。父に似ている。夜だけは気が大きく、朝になるといつも憂鬱な顔を浮かべる。妻以外の女を腕に抱くことでしか、自分に自信が持てないのか。ハマムは、お酒を飲んで過去の栄誉を反芻することでしか、自分に自身が持てないのだろう。微かに生まれかけた憐憫は瞬く間に嫌悪に変わった。
「これ、飲むかい?」
マタルがグラスを差し出した。瑠璃色のグラスは、昨夜の星空をそこにとどめているかのように煌びやかに輝いていた。
——私が欲しかったのは、こういう綺麗なものだよ。
「ありがとう」
それを受け取り、一口飲んだ。ひどく辛かった。喉に焼けるような熱さを感じた少し後に、すうっと鼻に甘い香りが抜けた。
「これ、お酒?」
「もちろんそうだよ。今日も楽しい一日にしなくっちゃね」
まるでマタルが号令をしたかのように、すぐにサルムとアルカラブが次のグラスを持って来た。忠実に従うだけの少女がふたり、ソラの横で待機している。言葉もなく、文句もいわずに、ただ立っている。肌は陶器のようにつややかで、無機質で、人形みたいだ。
「あなたたちも、楽しめば?」
「……楽しむ。でも、どうやって?」
サルムとアルカラブは、酒の飲み方も知らないらしい。汲み方も作り方も注ぎ方も知っているのに、飲み方だけ知らないのだ。
「だって、お酒が好きなのでしょう。なら、あなたたちだって飲めばいいのに」
「そうかしら。そうしてみましょうか」
二人が互いに顔を見合わせた。そしてソラのために持ってきたはずのグラスを打ち鳴らすと、一気にあおいで乾かした。
「あら美味しい。ずっと、知らないで生きてきた」
「ほんと。こんなに美味しい飲み物があっただなんて」
二人は顔を上気させていた。頬にさした紅は次第に陶器の下を巡り、やがては顔全体へとひろがっていく。彼女たちは、絶えず酒を飲み続けた。
一緒になってビハムも酒を飲む。ハマムも酒を飲む。もっとも理性的に見えたはずのサダルバリまで、ついには酒に手を伸ばした。ソラだって気分が高揚しているのがわかる。みなと同じで、酒が回ってきているのだろうと思った。
空を見上げた。雲一つない空には、ときどき鳥や蝶が姿を見せる。美しい翼や翅を太陽の光に透かして、虹色の影を落とした。それが宝石になる。ルビーやエメラルド、ダイヤモンドにアクアマリンにトパーズに……ソラは多くの宝石は知らないものの、どれもが口にすると甘く溶けていった。
「そう無闇に空から落ちた影を食べてはいけないよ。きっと、お腹を壊してしまうから」
いつのまにかカガミが横に立っていた。
背の低い、平凡な顔の女の子。
ソラは懐から鏡を取り出し、覗き込んだ。そこにはカガミが映っていた。驚いて手を離してしまうと、鏡が地面に落ちて割れた。
「とても綺麗な世界かもしれないけれど、あなただけで作る世界なんてどうせ狭くて、小さすぎて、つまらないものなのかもよ」
カガミは退屈そうにいった。
——そんなの知らない。
カガミがもっともらしいことをいうのに腹が立つ。現実がままならないから、夢の中の、ほんの束の間だけでも楽しみたいと思っているだけではないか。ここに現実を持ち込むなんて無粋だ。ここを守る。そのためには、現実から切り離して考えなければならないんだ。現実なんて、ここではいらないから。
——だから黙ってて!
地面に落ちた、割れた鏡を覗き込んだ。バラバラに砕けた空が映っていた。
「そろそろ戻ってくれば? 夢の世界だって結局は、ソラが見た現実の地続きなんだから。すべてあなたの思い通りになんて、ほんとはならないんだから」
ソラは顔を上げた。そこに立っているのはクラスメイトのヒナタだった。いつもクラスの中心にいて、明るい風を装っているのに、棘があって攻撃的で、人を馬鹿にすることでしか自分を保てない。愚かなヒナタだった。
「私の夢にあなたは必要ないはずだよ。出ていってよ」
「だからね、あなたの思い通りになんてならないんだって。なんなの、気取った詩なんて書きやがってさ。調子に乗ったらタダじゃ済まさないからね」
ソラの胸に急に恐怖が込み上げてきた。ヒナタにキッと睨まれた記憶がよみがえってくる。助けを求めて周囲を見やると、隣にいたはずのカガミの顔が、アヤナのものになっていた。
「ねえ、アヤナ。助けてよ」
「ソラは私から顔を奪ったでしょ。なにを今さら都合のいいこといってるの」
アヤナは味方じゃなかった。
「どうしたんだ、なにか困ったことでも?」
ハマムだ。
「……この人たちが、私を傷つける」
ハマムは鞘から剣を抜くと、銀色の光が一閃、宙を走った。そして少し遅れて赤い血飛沫が吹き出すと、パタンパタンと軽い音を立てて二人が倒れた。横たわったそれは、平凡な少女の顔をしている。
ソラは震えながらハマムを見つめた。英雄は鋭利な剣を手にしたまま、冷たい表情で立っていた。
「ホマム、なんでそんな……」
「俺は英雄だ。村を守るのが俺の役目なんだ」
ハマムがいった。
「この世界の平和を乱す輩は容赦なく除かなければならない」
ソラの身体は恐怖で硬直していた。言葉がなにも浮かばない。ヒナタやアヤナの死を、夢の中で自分は望んだのだろうか。
「あんな、ひどいこと……」
「憐れな現実の使者にすぎない。切り捨ててなにが悪いのだ」
ハマムが言い放つと、サダルバリ、マタル、ビハムが剣を手にした。
「ホマムのいう通りだよ。俺たちは夢を守るためならなんでもする」
すると、サルムとアルカラブがソラの両腕を掴んで押さえつけた。二人の少女はいつの間にか年老いていき、母のような暗い表情を浮かべている老婆になっていた。いつも思っていた。母はこのまま抵抗もせずに老い、衰え、父への呪いとともに死んでいくのだ、と。夢は、ソラの描いた母の未来を具現化して、サルムとアルカラブに投影したのだ。
「痛いっ! 離してよ!」
「十分に楽しめたでしょう。長い夢だったもの。夢の中での眠りはどうだった? 夢の中で思い通りになる気分はどうだった? とても素敵だったでしょう。でも、夢にだって必ず終わりが訪れるものだから。それが現実ってものよ」
カガミが笑みを浮かべながらいう。平凡な少女の顔に戻っていた。それがソラなのか、鏡に映った自分なのか、よくわからなかった。
——自分は夢から覚めることを望んでいるのか?
問う。問いかけても、自分は答えを出してはくれない。
ソラは必死に抵抗した。老婆とはいえ、二人で抑えつけられたのではどうしたって抗しきれなかった。
サルムとアルカラブはソラを地面に押し付けると、ハマムたちが剣を向けてきた。
「助けて! 誰か助けて!」
ソラは泣き叫んだ。周りには誰もいなかった。ソラが望めば、誰かが現れてもおかしくないはずなのに、夢の中は現実よりもはるかに残酷で、いやらしかった。
カガミが優雅に近づいてくると、ソラの頬を撫でた。
「そろそろ目覚めるときだわ。醜い現実に、あなたの無力さに、つまらなさに、平凡さに。そのすべてを受け入れて、惨めに生きるときが来たのよ。どうせ、母のような、父のような、くだらない人生を送るんだから」
ソラの目の前で、複数の刃が絡み合うように落ちてきた。鈍い衝撃に遅れて、全身にひどい痛みを感じた。目を開いた。真っ暗な部屋の天井が視界に飛び込んできた。星が輝いている。一際よく輝いているのはシリウスだ。火の星。犬の星。すべてを焼き尽くす星だった。現実に戻ってきたのに、肩や背、頭が痛んだ。ベッドから落ちたらしい。痛みのせいで涙が溢れてきた。醜く、空虚で、無力な自分に打ちのめされた。現実はあまりにも過酷だ。現実の延長である夢だって同じように過酷だ。逃げ場所などどこにもないなら、どう生きればいいのだ。
ソラは起き上がった。
姿見の前に立った。そこには、背の低い、平凡な少女が立っていた。その顔を見つめた。
夢の出来事が走馬灯のようによみがえる。残酷な夢の世界は、ソラ自身が作り出したものだ。夢の中で、自分は自分に対して拒絶感を抱いていた。鏡に映る自分に向かって、小さく口を開いた。
「ばーか。ばーか」
自らに向けられた馬鹿という言葉が跳ね返って耳に届いた。空虚な響きだった。
優雅で美しい世界、理想的な人間関係、完璧な自分自身を手に入れたい、という願望が、夢に映し出された。
夢の世界の崩壊は、自分を愛せないソラが理想を求めすぎたがための結果だった。ソラは、現実と夢の両方で拒絶されてしまったのだ。
「ばーか。ばーか」
鏡の中の少女は、空虚な響きを聞きながら泣いていた。泣いているその少女を見て、もう一人の少女が笑った。すると、つられるように鏡の中の少女も最後は笑った。
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