第九話 現場検証

 急な坂道の頂上より少し手前に設けられた右に伸びる脇道。そこには〝私〟が良く知っている光景が広がっていた。まさかまた二人でここに来ることになるなどとは思ってもいなかったし、隣に佇む彼も思うところがあるらしく、お互いにしばらく言葉が出てこなかった。


 森を割くように道路を敷設してあるこの場所は周囲に自然が多く、街中よりも空気はずっと澄んでいる。しかし私たちにとっては、深呼吸も憚られるほど重たく淀んだ空気が充満しているかのように思われた。


「あそこです」


 案内役である私がその停滞を振り払って踏み出し、彼がそれに追随する。私は二日前の記憶を頼りに注意深く周囲を観察し、背の高い草がほんの少しだけ左右に分かれている部分を発見した。


「ここです」


 塞がりかかっていた分け目を再度広げ、私はその先を指さした。


「ここに画面を下にして転がっていたんです」


 彼が私の後ろからその場所を覗き込んだ。スマホが転がっていた跡のようなものは残っていないが、彼はそれを確認して一言「なるほどね」と呟く。


「じゃぁ俺は草の中に他に何か落ちていないか探すから、沙夜は周囲に犯人の手掛かりになりそうなものがないか探してくれ」


 彼は私にそう指示を出しながら、リュックから軍手を取り出した。私も一言「わかりました」と了承の意を伝え、周囲の捜索を始める。


 とはいっても、何を目的にどこを探せばいいのかはまるで分らなかった。とりあえず周辺をぐるりと散策したが、特に目につくようなものがあるわけでもない。


 そもそも人間というのは注意を向けたものしか見つけることができない。赤いものを探せと言われた後に青いものがいくつあったか尋ねられると全く答えられないのと同じ理屈だ。だから、何かないかと漠然とした考えで歩き回っても結果は所詮知れている。


 少し考えて、あの時私は車で連れ去られたはずだということを思い出す。ギリギリ車二台がすれ違える程度のこの狭い脇道にそんな車が停めてあれば、夜であっても流石に気づくのではないだろうか。


 私はそう思いながら脇道の奥の方へと歩いて行く。すると、残暑のせいではない汗がつぅっと背中を伝ってきた。先日の一件のこともあり、あの家に近づいていくことに対してこの〝体〟も拒否反応を示しているらしかった。


 少し行くと左手の方に売地の看板が見えてきた。その売地には砂利が敷き詰められているが、石の隙間からはそこそこ背の高い草がまばらに生えている。看板自体も相当古いもののようで、表面の塗装は剥げたり薄れたりして広告として機能している気がまるでしない。仮にそこに記された連絡先に連絡したところで本当に繋がるのかどうかすら疑わしいほどだ。


 だが、ここなら一時的に車を停めて置く場所としては丁度いいかもしれない。土地の広さは車二台がなんとか収まるかといった具合で、道路と売地の境界に建てられた看板は真ん中よりも脇道の奥側に寄った位置に立っており、坂道に近い側が若干広くなっているので、車の出入りに看板が邪魔になるようなこともなさそうだった。


 私はもう少し先へ進み、他に車を停めておけそうな場所がないことを確認すると、引き返してその売地に戻ってきた。そしてこの売地に犯人が車を停めていたという仮定のもと、何か犯人が落としたものはないかと敷地内を端から端までしらみつぶしに見て回った。


 すると私はあることに気がついた。道路と敷地の境界線上、今看板が立っている位置よりも坂道に近い側に一部土がむき出しになっているところがあったのだ。かがんで見てみるとそこには穴が空いているようで、位置としては道路と敷地の境界線を丁度二等分する場所といった具合だ。周囲の土が崩れて形は歪になってはいるが、穴の形は長方形だったように見える。


 私は立ち上がって看板の方へ歩み寄り、それをよく観察した。看板はRPGよろしく、板に支柱をくっつけただけという簡素なもので、支柱の断面は長方形になっていた。またその支柱の根元を見ると、まるで看板が自力で穴から這い出ようとした跡のように、地面から十センチほどの高さまではっきりとした土汚れがついていた。


 私はこれらの物標が示唆する事象に犯行の一旦を垣間見たような気がして、思わず眉間にしわを寄せた。とりあえず犯人の落とし物探しを再開し、収穫がないことがわかると、看板と穴、それからその土地全体の写真を撮って私は彼のもとへ引き返した。


 戻ってみると、彼の姿が見当たらなかった。荷物は置いてあるので流石に一人で帰ったわけではないようだが、一体どこに行ったのだろう。仕方なく大声で呼んでみようかと思ったとき、草むらの奥の方からがさっという音がした。


「お、沙夜。なんか見つかったかー?」


 四、五メートル先の、もはや草むらと言うより森と言えるような場所から彼がひょっこりと顔を出した。坂に沿って勾配が付いているので、彼の立っている場所は私がいる道路よりも標高が高い。それを見て、私は呆れたように声を漏らす。


「一体どこまで探す気なんですか……」


 スマホが落ちていたのは道路から草むらに向かって1メートルもいかないところだ。そんな奥まで探したって何も出てこないに決まっている。しかし、そのがむしゃらさが彼の必死さを表しているようにも思われた。


「念入りに探すに越したことはねーだろ」


 そう言いながら彼は道路の方へと戻ってきた。半袖のワイシャツは見事に土や葉っぱで汚れており、なんで制服のまま来てしまったのかと私の方が気を揉んでしまう。だが、見ると彼の手には白い袋が握られており、私はそれについて尋ねずにはいられなかった。


「何か見つかったんですか?」

「ん? あぁ、これか?」


 彼はその袋を広げて見せた。その中には潰れたビールの空き缶やたばこの吸い殻、その箱、それにお菓子の包装や目を背けたくなる雑誌など、明らかにゴミと言えるものばかりが入っていた。


「あのー……ボランティア活動をしに来たわけじゃないですよね?」

「放っておけっていうのかよ? もののついでってやつさ」


 とりあえず彼が拾ったそれらのゴミについては、帰りに近くのコンビニのゴミ箱に捨てさせてもらおうということで決着がついた。


 その後、彼がもう少しだけ何か落ちていないか探させてほしいというので、私は頷いたが、その間私は何をすべきかわからなくなってしまった。一応売地を含めた周囲をもう一度見て回ってはみるが、やはり何も新しい発見はない。手持無沙汰になった私は、特に理由もなく脇道の入り口付近まで行き、そこでふとある疑問に突き当たった。


 脇道に入ってから売地のあたりまではほとんど道路以外の人工物がない。せいぜい電柱が数本立っている程度だ。しかし、あの時私は背後から襲われた。となると、犯人は一体どこに潜んでいたのだろう。


 少なくとも、草むらの中に身を潜めていたということは考えられない。草をかき分ける音がすれば〝私〟はそれに気づいていただろう。であれば、考えられる可能性は一つに絞られる。私が脇道に入った後、犯人もそれをつけるように脇道に入ってきたということだ。


 しかし、この説にも問題がある。あの日、私は脇道に入るまでは彼と一緒にいたわけだし、彼が来た道を戻っていくのを見送ってもいる。そしてその際に、他に人の姿を見たという記憶が全くない。


 といっても、この記憶というのも正直あてにならないところはある。なにせこの記憶には再現性がない。〝私〟の〝体〟はもう五十沢幽ではないため、〝私〟に刻まれた記憶が正しいかどうかを確認することはもうできないのだ。


 漫画やアニメなら主人公の持つ特殊能力は事件を解決するための大きな手助けになるのだろう。しかし〝私〟のそれは全くと言っていいほどアドバンテージにならなかった。スマホを見つけることができたことと、これが事件であるという確信が持てること。それ以外の恩恵が何一つない。そう思うと、必然的に大きなため息が漏れた。


 とりあえず、記憶の信憑性の問題についてはあの日一緒にいた彼に話を聞くというかたちで補完するとして、彼が〝私〟と同様に他に人影を見た記憶がないと言った場合に考えられる犯人の潜伏場所について考えてみる。


 脇道の入り口は丁字路になっており、脇道側から見ると、右が坂を上る側で左が坂を下る側となる。上る側の歩道にはゴミ置き場があり、大きな金網の箱が設けられていた。一応この中に人が入ることもできそうではあるが、中が見えてしまうため隠れる場所としては不適切と言わざるを得ないし、ゴミが入っていたらそもそも中に入れないだろう。


 だが、ゴミが入っていたとするなら箱の向こう側は標高の低い方から見ると死角になるかもしれない。そう思って私は箱の向こう側まで行き、そこに屈みこんでみた。ゴミの入り具合によって完全な死角になる面積は相当変化しそうだが、金網自体の大きさはこの小柄な体でなくとも掩蔽できそうなサイズがある。帰宅の際にゴミ置き場の奥になにがあるかなど気にするわけもないので、隠れるとすればここがもっとも最適な場所になりそうだった。


 私は立ち上がって、他に隠れることができそうな場所がないか周囲を見渡した。しかしやはりというべきか、ここ以上に身を隠すのに適した場所は草むらの中以外にはなさそうだった。


 一応誰かが分け入った痕跡などがないかを確認するが、仮に犯人が草むらの中に潜んでいたのだとしても、一ヵ月も経ったあとではその痕跡も大自然の回復力に飲み込まれてしまったことだろう。私は諦めて脇道に戻ることにする。そしてその時、丁度そこから出てきた彼と鉢合わせになった。


「あ、いたいた」

「そっちはもういいんですか?」

「まぁね。そっちは?」

「私もそろそろ戻ろうと思っていたところでした」

「そっか。なら引き上げるとするか」


 そう言って坂の下へとつま先を向ける彼だったが、それと同時にこちらに向けられた彼の背中に汚れが着いてるのが目に入る。前の方はあらかた払ってあったようだが、背中にはまだ木の葉やら土やらがおそらく草むらから出てきたときのままで残っていた。流石に気になったので、私は彼に声をかけることにする。


「ちょっと止まってください」

「ん? 何?」


 振り返った彼に私は再びあちらを向くように指示し、手で彼の背中に着いた汚れを払っていった。彼の背中は汗で湿っていたが、それは私が見ていないところで彼がどれだけ努力していたかの証明でもあるため、気にはならなかった。


「はい、これで綺麗になりました」

「お、おう。さんきゅ」


 五十沢幽だった時には見られなかった彼のぎこちない言動に、ひょっとして他の女子の前ではこんな感じなのだろうかと考える。なんだか少し意外な彼の一面を見た気がした。

 

 コンビニでゴミを捨てるついでに、彼はそこで買い物をした。私がとことん遠慮したのにも関わらず、彼は二種類のペットボトル飲料を買ってコンビニから出てくると、両手にそれを持って「どっちがいい?」と尋ねてきた。


 彼が提示したのはどちらもジュースで、オレンジジュースとソーダの二択となっている。私は彼に先に選んでほしいと言ったが、彼の方もどっちでもいいからと言って譲らなかった。なので、私は仕方なくオレンジジュースの方を選んだ。


 あまり行儀が良いとは言えないが、二人でそれを飲みながら歩いた。彼がサイダーを飲み干すのとほぼ同じタイミングで目的地の公園に到着する。〝私〟にとってはもうずいぶんと見慣れてしまったあの公園だ。私たちは四阿あずまやの中に入り、机を挟んで向かい合った。


「さて、とりあえず沙夜の方から話を聞かせてくれないか?」


 私は腰を落ち着けるなりすぐさま本題に入る彼に頷きで返すと、ひとまずSNSを使って今日撮った写真を彼に送った。


「今送った画像順で説明していきますね。まず、最初の写真は五十沢さんのスマホが落ちていたところよりも奥にあった売地の写真です。すでにお話ししたように、五十沢さんは襲われて拘束されたあと車で連れ去られたので、どこかに車が停めてあったはずなんです。でも、少なくとも〝私〟の記憶では、あの脇道に車が停めてあった覚えはないんです。あの狭い道幅のところに車が停まっていたら流石に気づくと思うので」

「なるほどね。で、犯人はここに車を停めてたんじゃないかってことか?」

「はい。写真ではわかりづらいですけど、車が二台駐車できるぐらいの広さはありました」


 彼は写真をまじまじと見た後、顔を上げて私に他の可能性を提示した。


「あの道沿いってさ、古い建築ばっかりだけど、ところどころ住んでいる人はいる感じだったよな? 車が出入りしてるのも何回か見たことがあったし。でさ、例えばそういう家のどっかに車を停めてたって可能性はないか? あるいはそこの住人が犯人とか。いや、流石にないとは思うんだけど」


 彼の言う通り売地よりもさらに奥に行くと脇道沿いには古い民家が並んでおり、そのいくつかからは人が住んでいる空気が感じられた。だが、〝私〟が五十沢幽であった一ヵ月間に他の住民を目撃したことはなかったので、本当に人が住んでいるかは定かではない。それでも、彼の説も可能性は低いながら無視できるものでもなかった。


「確かにその可能性はゼロではないと思います。ただ、私があそこに犯人が車を停めていたと思っているのには他に理由があって――二、三、四枚目の写真を見てもらえますか?」


 私は自身の説が彼のそれよりも可能性が高いものであることを説明しようと先を進める。


「これは……看板?」

「はい。二枚目が看板の写真で、三枚目がその看板の支柱の根元を撮ったものです」

「この四枚目は? 穴?」

「はい。一枚目の写真で言うと、このあたりにあった穴ですね」


 私は売地全体を写した写真を表示したスマホをテーブルの上において、彼に穴があった位置を指でさししめした。売地と道路の境界線のちょうど真ん中だ。


「三枚目の写真を見るとわかるんですが、看板の支柱は地面から十センチくらいの高さまでが異様に土で汚れていて、それより上は割と綺麗なままなんです。まぁ、かなり朽ちてはいますけど」

「確かに……あぁ、なるほど。そういうことか」


 彼は私が言いたいことを理解したというように顎に当てていた手を外した。


「つまり、沙夜は犯人が車の出入りに邪魔な看板の位置をずらしたって考えているわけだな?」

「はい、そうです」


 彼と解釈が一致したことで私は自身の推測が見当違いではないことを知り、少しほっとした。そしてその安堵が、その先の推理を進めることの後押しになる。


「おそらく犯人は普段見かけない車が目立つところに停まっていることで誰かの印象に残ってしまう可能性を恐れたんじゃないでしょうか? だから看板をどかしてまで売地に車を停めたんです。極力目立たないように」


 筋の通った説明だと思っていた。しかし、実際に口に出してみると少しひっかかる部分もあることに気づく。


 犯人は犯行にスタンガンや効き目の早い注射式の睡眠薬を使うという用意周到な人物だ。しかし、看板の移動については随分とおそまつな方法をとった感が否めない。少なくとも、もともと看板が刺さっていた穴を埋めるだとか、ずらした看板をもとの状態と同じくらいの深さまで差し込むだとかいった注意深さは働いても良さそうなのにという気がした。


「なるほどな。じゃぁ今度は俺が見つけたものについて考えてみようぜ」


 そう言って、彼は手のひらサイズの金属製の品を取り出してそれをテーブルの上に置いた。土汚れの目立つそれは、ぱっと見では何につかうかまるでわからない形状をしていた。


 球体から伸びた軸と、その球体がすっぽりとはまる部材とが繋がっているのを見るに、どうやらボールジョイントになっているらしいそれは、軸の先に直径3センチほどの黒い円盤を備え、その表面からさらに5ミリほど飛び出した軸にねじ切りが施されていた。


「これは……なんですか?」


 私はそれを矯めつ眇めつしながら質問した。


「なんかカメラとかを固定するための器具っぽいな。画像検索してみたら似た形のやつがあった」


 彼はそう言って自身のスマホをこちらに向けた。画面には商品説明用の画像が並んで表示されており、そのどれもが今テーブルの上にあるそれと似たような形状を持っていた。


「確証はないけど、あんまり錆びている様子もないし、捨てられたのはそんなに前ではないと思う。つっても年単位の時間が経っているわけじゃないって程度の予想に過ぎないんだけどさ」


 私も彼とだいたい似たような予測だった。触ってみると、ボールジョイントはまだ大きな抵抗を感じさせることなく動くようだったし、ねじ切りされた突出部も錆びが目立っている感じではない。


「ただ、これが事件に関係あるのかっていうと……正直無関係だろうな。きっと誰かが要らなくなって適当に投げ捨てたんだろ」


 彼は手を広げてやれやれというようなポーズをとると、落胆するように肩を落とした。しかし、私は彼の考察についてすぐにうんとは頷けなかった。


「でもこんな器具が必要になるってことは、これを捨てた人は割とちゃんとしたカメラを使っているってことですよね? でも、あんなところにそんなカメラを持ってくる人なんているんでしょうか? 今じゃ大抵のことはスマホで事足りますし……」


 私の反論に、彼も放棄した思考を再び巡らせ始める。そこで、私は思いついた一つの仮説を彼に提示した。


「犯人は用意周到な人物だろうってことはすでに話しましたよね? だったら犯人は五十沢さんについてもよく調べていたんじゃないでしょうか? 例えば、あの森の中にカメラを設置してターゲットである五十沢さんの行動パターンを調べていた――とか」


 こじつけかもしれない。彼の言う通り、マナーのなっていない誰かが適当にそこらに投げ捨てたという可能性の方が分があるような気がする。これが手掛かりであってほしいという願望が、私をその仮説に誘導しただけかもしれない。それでも私は可能性はゼロではないと自身に言い聞かせたかった。


「確かにな……。そういう可能性は思いつかなかった。一理あるんじゃないか?」


 彼は少し驚いたように私の仮説に頷いて見せた。もし私の仮説が正しければ、この固定具には犯人の指紋が残っているかもしれない。流石の犯人もこんなものを見つけられるとは考えていなかっただろうし、犯行に直接関係するものでもないので警戒は薄かったはずだ。


 しかし当然ながら、指紋照合する技術を一高校生が持ち合わせているわけがなかった。私たちは文明の利器に頼らず、推理小説に出てくる探偵の様に推論を積み重ねていくことでしか犯人に辿り着くことができないのだ。


「けどさ、仮に沙夜の仮説の通りだったとして、結局それをどこのどいつがやったんだって話だよな……」


 彼の若干苛立ちを含んだ声に、私は沈黙で同意を示すほかなかった。


 仮に指紋照合が可能だったとして、そもそも照合先となる容疑者がいなければ、それ全く無用の長物だ。今回の現場検証で犯行の詳細ついて多少推測を深めることはできたものの、最も重要である犯人が誰なのかということの手掛かりを私たちは何一つ掴むことができていなかった。


「一応確認なんですけど……」


 私は縋るような思いで彼に質問した。


「事件当日、あの場所に他に誰かがいるのを見た――とかはないですよね? 人影を見たってだけでもいいんですけど」


 彼は私の質問にかぶりを振って答えた。やはり〝私〟の記憶通り、あの時目につくようなところに人の姿はなかったようだ。もし彼が他に誰かを見たというのであれば、それを端緒に犯人の特徴ぐらいはわかるかもしれないと思ったが、現実は手繰り寄せる糸の端すら見つけられない結果に終わってしまった。


 当初、私は今更事件現場の検証をしたところで何も見つからないだろうと思っていた。だからそれに比べれば今回の現場検証は大した成果を出したといえる。それなのに、中途半端に見つかった手掛かりがどれも犯人に結び付いていかない現実は却って私たちを打ちのめしていた。簡単でないことはわかっていたが、実際に突き当たった壁の大きさは想像よりもはるかに巨大なものだった。


「あーまずい。そろそろバスの時間だわ」


 彼の気だるそうなその一言に、私たちは重い腰を上げて四阿を出た。

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