第八話 約束と協力

 犯人は両親ではない。


 深く考えもせず、どうせ両親の犯行だろうと高を括っていた私にとってその帰結の衝撃は大きかった。


「じゃぁ、一体誰が五十沢さんを……」


 ミステリー小説よろしく、私は最後まで台詞を言い切ることができなかった。しかし、その後ろに続く内容は当然彼にもわかっている。


「さぁな……そもそもなんで幽を狙たって話だよ。よりによって、なんであいつが……」


 悶えるような苦しみが彼の絞り出すような声から伝わってきた。


「沙夜はなんか覚えてたりとかしないのか? 犯人の特徴とか、なんでもいいからさ」


 彼の質問に答えるために〝私〟はその時の記憶を遡った。あの時、急に後ろから回された手は太かっただろうか、細かっただろうか? 犯人の背丈は? 声を聞いたりはしなかっただろうか? もしくは特徴的な何かがあったりはしなかっただろうか?


 しかしそんな風にしていくら思い出そうとしても、それは磨りガラスを必死に擦るようなものでしかなく、その先にあるものの解像度が上がることは決してなかった。今までの経験からわかっていたことだが、思い出すという行為にはどうしてもその〝体〟が必要だった。


 しかしその一方で、ある記憶だけは微に入り細を穿つまでの鮮明さを保ったまま残っていることに〝私〟は気がつく。その瞬間、私の体は突如として極度の悪寒と恐怖に侵され、胃は猛烈に締め上げられた。背を丸め、口に手を当てがって必死にこらえる。彼が私の様子の変化に気付いて、慌てたように私の背中に手を当てた。


「お、おい。大丈夫か?」


 なんとか胃の内容物を押し返した私は、弱弱しい声で「大丈夫です」と返す。


「悪い。沙夜は思い出したくないことだったよな」


 謝る彼に対し、私は小さく首を横に振った。


「向き合わないと……いけないことだから」


 口をついて出たのがそんな言葉だったが、「向き合う」というのが何を意味するかは自分でもよくわかっていなかった。それはこのトラウマを抱えながら生きていくという決心のようでもあったが、だからといって五十沢幽のことを無かったことにしてこのまま大森沙夜としてのうのうと生きていくというのも違うような気がした。


 私は呼吸を整えながら、意識をできるだけ記憶から逸らすようにして言葉を発した。


「久々利さんは、今後どうするつもりなんですか?」


 それはまるで自分の問題を棚上げしているかのような質問だった。私の質問に彼は少し思案した後、その答えを決然と口にした。


「犯人を捜す」


 予想すらしていなかった彼の回答に、私は驚きと困惑を隠せなかった。


 事件があってから一ヵ月も経った今、警察でもない一般人が――ましてや成人すらしていないごく普通の高校生が、たった一人でその目的を達成するなど、無謀で、途方もないことに違いなかった。


 だが、それくらいのことは彼も十分に承知しているだろう。それでも彼の表情は真剣さを称え、拳は強く握られている。それは不退転の意思の表れだった。


「このままじゃ終われねぇよ。しっかり落とし前付けさせてやる」


 敢然と困難に立ち向かおうとする彼の姿は、いかにも勇敢さを称えているかのように見える。しかし、その目の深奥では好ましい感情からではない炎が燃えているような気がして、私は急に不安になった。


「どうやって捜すつもりなんですか?」

「さぁな。俺にもわかんねぇ。けど、何年かかっても絶対見つけてやる」


 彼が背負った十字架の大きさが、今になってはっきりと見て取れた。彼は人生をかけるつもりでいるらしい。そして、私にはそれが正しい選択なのか判断がつかなかった。ひょっとすると彼の選んだ道は、無力感を募らせた果てに憎悪ばかりをいたずらに膨らませ、鬱々とした感情の渦に飲み込まれてしまう道かもしれない。そんな漠然とした予感が私の中で不安を滲ませていく。


 その時、ふと私の頭の中にいつかに投げ捨てた『こころ』のあらすじが浮かび上がってきた。〈先生〉によって〈お嬢さん〉を奪われた〈友人K〉の末路。その姿が彼と重なってしまう。そして今、〝私〟は〈先生〉だった。


 もし彼が〈友人K〉と同じ末路を辿ってしまったら、きっと〝私〟も最終的に〈先生〉と同じ選択をしてしまう気がした。それがたとえ彼との約束を違えるようなことだったとしても、おそらく〝私〟はその選択を躊躇わないだろう。


「私にも協力させてください」


 私は自身の思考を遮るようにその言葉を口にした。できるだけ強く言葉を発したつもりだったが、彼にどう聞こえているかはよくわからない。ひょっとすると酷くか細い声だったかもしれない。


 しかし、〝私〟はその提案をせずにはいられなかった。なぜならこれは、彼が〈友人K〉にならないための、そして〝私〟が〈先生〉にならないための足搔きだからだ。


 突然の私の提案に対し、彼は少し眉をひそめ、懐疑的かつ同情的な表情を示した。


「どうして沙夜がそんなことしなきゃいけないのさ。他に何か思い出したって言うなら聞かせてもらうけど?」


 彼のその態度は、まるで〝私〟は関係ないと言っているようにすら感じられ、私は少しむっとした。そのせいか、今度は意識せずとも自然に語気が強くなる。


「ちゃんと弔ってあげたいんです。質素でも葬儀をして、お墓を立ててあげたい。それじゃダメですか?」


 語気の割には本音半分、建前半分のような言葉だった。五十沢さんを弔いたい気持ちは本当だが、それは〝私〟自身の独りよがりな贖罪でしかないということもわかっていた。


 彼は私の言葉を受けてしばらく考え込んでいたが、最終的には小さく頷き、私の提案を受け入れてくれた。


「わかった。じゃぁこれからよろしく頼むよ。沙夜」


 彼はそう言いながら右の手を差し出した。私も右の手を差し出し、お互いにそれを握る。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 私は軽く頭を下げた。こうして私たちは高校生らしからぬ大義のもとに協力関係を結ぶこととなった。


「とりあえず今日は遅いし、もう帰ろうぜ」


 スマホを見ると、もうすでに十七時を十五分ほど回っていた。そろそろ空が赤らんできてもおかしくはない。私はデイパックを背負い、帰宅したら昨日のように急いで家事を済ませる必要がありそうだなと考えた。


 彼とは家の方向が違うらしく、スロープを上っりきった橋のたもとですぐ別れることになった。


「そういえば沙夜って何組?」


 別れ際、彼は私のクラスを尋ねてきた。


「三組、ですけど……?」

「おっけ。じゃぁ明日授業終わったら迎えに行くから待ってて」

「え?」


 彼の言葉の意図を図りかねた私は思わず聞き返すかのような一音を発していた。


「あ、都合悪いか? これが落ちてたところ、一緒に行って教えてもらおうと思ってたんだけど。もしかすると他にも何か残っているかもしれないしさ」


 彼は五十沢幽のスマホを私に示しながらそう言った。つまり、明日から犯人捜しが始まるということだ。


「あぁ、なるほど。わかりました」


 私はそう言って了解の意を示したが、今更あの場所に手掛かりを探しに行っても、きっと何も見つからないだろうとも思っていた。しかし、現状私たちが取れる行動の中では、それが最も優先順位が高いことも理解している。ひょっとすると、あのスマホのように犯人が回収しそびれたものが奇跡的に見つかるかもしれない。そんな朧げな可能性に頼るくらいのことしか高校生の私たちにはできなかった。


「じゃ、また明日」


 そう言って去っていく彼の後姿を、〝私〟はどこか懐かしさを偲ばせる視線で見送った。


 なんともいえない不思議な感覚だった。高揚というにはいささか慎ましいが、それに似た何かが〝私〟の中に生まれているのがわかる。小さな小さな種火が、燃えて朽ちようとしていた炭の中に仄かに灯ったような、そんな感覚だった。


 その出どころが何であるかは自分でもよくわからない。しかし、この火が消えてしまったらもう二度とそれが熱を持つことはないだろうということだけはわかる。


 そぞろに胸に手を当てた時、八月の終わりを告げる風がすぅっと吹き抜け、私はそれにこの種火を吹き消されまいとするように胸の前でその手を握った。




 想定外の事態が起きていた。まさかこんなことになるなどとは思ってもいなかった。


 私は今一枚のアンケート用紙に向かっている。一限目の授業の冒頭の時間を潰してまで行われたこのアンケートは、昨夜のうちにネット空間で沸き起こったある事件が発端になっていた。


 数分前、先生の説明は昨日SNS上にとある短い動画がアップされたという切り口に始まった。その動画には一人の女子生徒が橋から飛び降りようとしたところを、周囲の人たちが引き上げるまでの映像が収められていたという。


 あとからその動画を確認して分かったことだが、画角からして私たちがいたのとは反対側の堤防から撮られていたそれは、引き伸ばされて画素が荒い上に手振れもあったので個人を特定できるほど鮮明ではなかったものの、かろうじて制服から学校を判別できるくらいのものだった。


 動画は一気に拡散され、様々な議論や憶測を呼んだ。制服から割り出されたこの学校は当然ながらそれらの言説の的となり、それに気づいた学校側は急遽その対応に追われ、今に至るというわけだ。


 冷汗が止まらなかった。もしここで私が特定されるようなことがあれば、母がどれほどショックを受けるかわからない。ただでさえボロボロの精神と肉体を持ち前の我慢強さだけをよすがにしてなんとか支えている母が、こんなことを知ったら――そんな想像をするだけで血の気が引いた。


 アンケートの内容はいじめや家庭事情に関する一般的もので、最後の方に数問ほど無理やり付け足されたかのような特殊な設問がいくつか用意されている。また、締めくくりには赤字でこんな注釈が添えられていた。


――※必読:ネット上で動画を拡散したり、根拠のない憶測をコメントするようなことは控えてください。また、本件について何か知っている人は些細なことでも構いませんので、教員もしくは非常勤のカウンセラーに相談するようにしてください。


 私はほぼ機械的に〈いいえ〉を選び続け、自由記述欄は空白のままにした。それから注意深く周りの様子を窺うが、先生の妙に気の利いた計らいで、他の生徒は一生懸命に課題のプリントを進めているように見える。これでは誰かがアンケートの自由記述欄に何か書いていたとしても気づけない。私は全てのアンケートの自由記述欄が空欄になっていることを祈るほかなかった。


 余った時間で課題に取り組むような気が起きるはずもなく、私は机の裏でこっそりスマホを取り出し、先日交換した連絡先である〈しんせー〉というアカウントとのチャット画面を開いた。まだ何も表示されていないそのチャット画面に、私は〈自由記述欄、何か書きましたか?〉と初めてのメッセージを送る。当然、既読はつかなかった。


 当然、その日の授業は全く身が入らなかった。昼に食べた弁当はまるで全てが白米にでもなってしまったかのように味気なく、放課後になるまで幾度となく確認したチャット画面も、結局〈既読〉の文字を刻むことはなかった。


 もうこうなってしまったら直接彼に訊いた方がはやい。私は荷物をまとめると廊下に出て、教室の前後の入り口の間で彼を待つことにした。授業が終わった直後でにわかに騒がしくなっていた教室も、数分も経てば人がはけて落ち着きを取り戻す。そんな様子を私は耳で感じながら、胸中を搔き乱す憂慮と悪戦苦闘していた。


「おっす」


 自身の内的な闘争のために彼の接近に気付くのが遅れた私は、咄嗟に「どうも」と挨拶を返して軽く頭を下げた。意識していれば抑えられるのだが、この〝体〟はいちいち人に頭を下げる癖があった。


「いや、そんなにかしこまらなくてもいいんだけど……同級生だし」


 彼は困った様子で頭をかいた。私はすぐにでも今朝のアンケートのことを訊きたかったが、流石にここで話すのはリスクがあるなと思い直し、詰め物でもするかのようにぐっと喉に力を込めた。


 二人で昇降口へと向かう途中、なんとなく周囲の目が気になった。片やクラスの人気者、片やクラスの日陰者。誰がどう見たって不釣り合いのこのコンビは無駄に人目を引いてしまうらしい。私は背中に感じる視線と小声を意識の外に押しやりながら、今後待ち合わせをするなら校外にしようと決め、校門の外へと逃れ出た。


「えっと、確か幽の家の近くでよかったんだよな?」

「はい。ちょっと遠いですけど」

「だなー。バス使おうか?」


 彼の提案に私は月を跨いだばかりで今月のお小遣いをまだ貰っていないことに気がついた。なけなしの小銭も先日全て奪われてしまったので、私は現状文字通りの一文無しということになる。


「すみません。お金、今持ってないです……」


 私は申し訳なさそうに彼にそう告げたが、彼はそれを全く意に介さなかった。


「あぁ、いいよ。バス代くらいは俺が出すし」

「でも」

「ただしちょっと歩くけどそれは我慢な?」

「はぁ……」


 こちらとしては全て歩きでもいいのにと思ったが、それに彼を突き合わせるのは悪いし、そもそもあの長い道のりをこの〝体〟が音も上げずに徒歩で往復できるかどうかもかなり怪しかったので、ここは彼の好意に甘んじるしかないだろうと諦めた。


 帰宅部がわらわらと集まっている最寄りのバス停を通り過ぎ、私たちはひとまず徒歩で目的地へと向かい始める。五分ほど歩き、周囲に同じ学校の制服を着た人がいないことを確認したところで、私はおそるおそる彼に尋ねた。


「あのー……久々利さんは今日のアンケート、何か書いたりしました?」


 日がな一日、他のことに身が入らないほど私を不安にさせていた懸念を私は彼に対して吐露していた。


「あぁ、書いたよ」


 何の躊躇いもなくそう答える彼に、私は途端に背筋が凍りつくような思いをさせられる。「書いた」とはつまり、私が自殺をしようとしたことを学校側に知らせてしまったということだろうか。だとすればそれは私にとって想像する限り最悪のシナリオだ。


 確かに彼には大森沙夜の境遇については話していない。だからその点について配慮しろというのは理不尽だ。だが、事件の捜査に支障が出る可能性については考慮できたはずじゃないのか。そんな怒りに似た感情まで湧き始める。


 だが、そんな私の胸中を察したのか、彼は言葉を継ぎ足した。


「あー違う違う。沙夜のことじゃなくて幽のことを書いたんだよ」

「え? 五十沢さんのことを?」


 ふつふつと気泡が浮かび始めたお湯の中へ急に氷が投げ込まれたかの如く、私は内に籠り始めていた熱が急に冷めていくのを感じた。


「そ。これを機に学校側が動いてくれねぇかと思ってさ」


 一瞬感じた怒りはどこへやら、私は彼のその行動になんて機転が利くのだろうと感嘆してしまっていた。私は自分のことで頭が一杯だったというのに、彼はこのアクシデントをうまく利用することに考え至っていたのだ。


「それに、沙夜のことは書く必要がなかったしな」


 彼がおまけのように付け足した言葉はさらに私を驚かせた。なぜか彼は私のことを全く問題にしていなかったらしい。私は自身の懸念が杞憂に過ぎなかったことが腑に落ちず、思わずその疑問を口にした。


「必要がないって……なんでですか?」


 少なくとも、私にとってはあまりに素朴な質問だった。


「え? 『なんで』って……」


 私の問いに、彼は一瞬怪訝そうな顔をこちらに向ける。


「だって学校側は自殺しようとしてる生徒を探してるんだろ? じゃぁ沙夜のことを書く必要ってなくないか?」


 彼はさも当然のことを言っているかのような口調で先を続けた。


「約束しただろ。もう自殺はしねぇってさ」






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