第五話 自己喪失

 初めての自殺後、〝私〟に起きているのがどういう現象であるかをはっきりと認識させたのはごくありふれたニュースの一つだった。そのニュースでは〝私〟が自殺したことが報じられており、今の〝私〟が以前と同じ世界にあって、違う誰かとして生きているという事実を〝私〟に知らせていた。


 その時〝私〟は自分が死んだ者として扱われているのを見て、いま〝私〟が〝私〟だと思っているものは何なのだろうかと考え、そしてあることに気がついた。名前というものは〝私〟に与えられていたものではなかったのだと。


 世にある物語の中には名前というものを特別視するものがいくつもある。最近になるまで歴代興行収入がトップだった某有名スタジオのアニメ映画でも、名前という概念は非常に重要なファクターであったし、他にも名前を思い出すことが物語の重要な鍵となる作品は五万とある。


 だが、幾度となく転生を経験してきた〝私〟に言わせれば、名前にそんな重要な意味はない。その本質は工場で言うところの製造番号となんら変わりはなく、所詮〝体〟に紐づけられたタグに過ぎないのだ。であれば、もはや名前に執着する理由は〝私〟にはなかった。


 もう幾度繰り返したかわからない転生が、古くなった〝私〟の借り物の名前をどんどんと記憶から消していた。せいぜい三回前の〝体〟の名前が出てくれば上出来かという具合に。当然、始まりの〝体〟の名前など憶えているわけがなかった。


 しかし、今になってそれを必死に探し求める〝私〟がいた。自身のことを〝私〟という言葉以外で指し示すことができる言葉を〝私〟は欲していた。


 これまで、自身のことを〝私〟と単なる一人称で呼ぶことについては何の問題も感じてこなかった。なぜなら、この呪いのような転生生活において〝私〟と〝体〟の区別は〝私〟の認識で完結していればよく、それを外界に示す必要は全く皆無だったからだ。


――〝私〟……だよ?


 自分で発したその言葉が、耳に纏わりついて離れない。その言葉は途方もなく脆弱で、誰かに届くだけで「〝私〟」は「私」に変化し、そこから〝私〟の存在は抹消された。つまり、名前のない〝私〟は誰にも認識されないのだ。そしてそれは、〝私〟がこの世に存在することができないということとほぼ同義だった。


 今まで信じ切っていた〝私〟の存在が視界とともに揺らいでいた。真っ直ぐに進めているのかどうかもわからないまま、今私は夢遊病者のように道を徘徊している。


 人気の少ない公園。二十四時間営業のコンビニ。急な勾配のついた坂。そして脇道。まだ薄れずに残っている〝私〟の記憶とそれらの景色が符節を合わせる度、それが紛れもない現実であることを認識する。


 そして〝私〟は再び五十沢幽が誘拐されたその場所に立ち尽くしていた。当然ながら、あの時放り捨てた荷物は既にそこにはなく、形跡らしいものは何ひとつ残されていなかった。


 特別意識して辿り着いた場所ではなかった。ただ過去への思いを募らせ続けた結果、私はここに行き着いてしまっていた。


 もしここで立ち止まってさえいなければ。ほんの少し歩く足を速めていたのなら。そんな考えがあとからあとから沸き起こる。しかし、いくら後悔を重ねたところでそれは意味のないただのたらればに過ぎなかった。ましてや、いくらやり直したいと願ったところで、時間が巻き戻るなんていう都合のいいことが起こるはずもない。私は俯いて、唇を噛んだ。


 その時、草むらの中から何かが誘うような気配がした。私はその直感に似た何かに従って、身勝手に伸び散らかしている草花をかき分け、その正体をそこに見出すことに成功する。自然のものではない作為的な形――手のひらサイズの長方形をした薄い板が、汚れきった状態でそこに転がっていた。


 私はそれを拾い上げると、大雑把に汚れを手で払って電源ボタンを押した。画面は黒いまま、何の反応も示さない。壊れているのか、それとも充電切れの表示すら出せないくらいに電池が枯れ切ってしまっているのかはわからない。ただ、私はこの中をどうしても見なければという使命感のようなものを感じ、それをカバンの中にしまい込んだ。


 それから私は何を思ったのか脇道の奥へと足を進めた。五十沢幽だった時にはまるで鉄球でも引きずっているかのような感覚を覚えた道だったが、今の〝体〟には当然そんな反応を示す理由がなかった。


 私は五十沢幽の家の前で足を止めた。至る所から隙間風が入り込むようなボロボロの平屋。一ヵ月もの間、〝私〟はここで五十沢幽として虐げられ続けてきた。その記憶は、未だに〝私〟の中に鮮明に残っている。


 それなのに今〝私〟は間違いなく後悔をしている。あの地獄から抜け出して、優しい母を持つ大森沙夜として転生できたというのに、なぜ今更あの地獄に戻りたいなどと思ってしまうのか。その理由がまるでわからなかった。


「おいてめぇ、俺の家に何の用だ?」


 急に背後から声をかけられ、私はびくりとして振り返る。そこには血縁という意味においてのみ五十沢幽の父と呼べる男が立っていた。


「その制服――まさかてめぇも幽に用があるって口じゃぁねぇだろうなぁ!?」


 男は私の姿を見て急に怒りを露にし、手に持っていたビール缶が詰め込まれたレジ袋を道路に落として肩をいからさながら私との距離を詰めてきた。


「え、え? 違います! 私は――」


 私は震える声で弁解を試みたが、その声も男に胸ぐらを掴まれたせいで途絶えてしまった。男の顔は紅潮し、口からは強烈な酒臭さを放っている。〝私〟はこうなった時のこの男がどれほど危険かを知っていた。


「どいつもこいつも俺のムカつくことばっかりしやがってよぉ! てめぇらみてぇのはこうでもしねぇとわかんねぇんだろうなぁっ!!」


 男は意味不明なことを怒鳴りながらその拳を振り上げた。私はこの〝体〟の膂力では到底抵抗ができないことを悟り、必死に顔を両腕で覆って目を瞑った。しかし、次の瞬間意外なことが起こった。


 どさっという音がして目を開けると、その男は地面に横向きになって倒れ、呻き声をあげていた。そして私の目の前には代わりに違う人物が立っており、その人物は「逃げるぞ!」と一言叫ぶと、私の手を引いて駆けだした。


 急激な加速に運動不足のこの〝体〟はすぐに音を上げて心拍と呼吸を乱していく。一方で、後ろからは男が何やら怒声をあげながら追いかけてきており、それから逃れなければという気持ちが私の足を前へと駆り立てた。


 脇道を出て左へ曲がり、急な坂道を二人で駆け下りた。重力の力を借りて加速し、アルコールのせいで覚束ない足取りの男から全速力以上の速さで距離を取る。坂を下りきって後を振り返ると、男はもう追って来てはいなかった。


 ぜぇぜぇと息を切らし、膝に手をつきながら、私は同じく息を切らしている彼を見た。そこには小一時間ほど前に私の手を振りほどいたのと同じ人物がいた。


 なぜ彼があそこに現れたのかはわからない。そんなことより今重要なのは、〝私〟は既に彼に拒絶された存在であるというその事実だけだった。


「助けて、いただいて……ありがとう、ございました」


 荒れる息と息の隙間から、私は辛うじてその言葉を捻りだし、なんとか姿勢を整えて小さくお辞儀をする。そしてすぐに踵を返すと、まるで逃げ出すかのように一歩目を踏み出した。


「ちょ、待ってくれ――!」


 まるで何かに縋りつくような悲痛な叫びが私の足をその場に縛り付けた。自身の荒い呼吸に交じって、彼の必死な息遣いが聞こえてくる。


「君は、幽を――五十沢幽を知っているのか?」


 その質問に私の背筋は凍り付いた。それは先刻見た彼の虚ろな目の由来が五十沢幽に関係しているということを瞬時に私に理解させ、同時に〝私〟に対して言い知れぬ罪悪感を突き付けている。乱れた呼吸で上下する肩が今度は小さく震え始め、私はそれを必至に両手で握りつぶした。


「――知りません」


 私は歯を食いしばり、掠れた小さな声で答えた。


「知らないって……じゃぁなんで、なんで君はあそこにいたのさ?」


 彼は引き下がらなかった。そればかりか、私が知らないと言い張ることを咎めるかのような質問で私に迫る。答えに窮した私は、唇を引き締め、沈黙を返すことしかできなくなってしまった。


「なんで何も答えてくれないんだよ……」


 彼の声が急に弱弱しくなった。まるで母親を見失った子どものような、彼には到底似つかわしくない声が、〝私〟の胸中をかき乱す。


「なぁ、本当になんでもいいんだ」


 やめて。


「どんな些細なことでもいい」


 そんな目で〝私〟を見ないで。


「もし――」


 もうやめて!


「幽について何か知ってるなら――」

「知らないって言ってるんです!!」


 私はそう叫ぶと、彼から逃げるように駆け出した。これ以上変わってしまった彼を見ていると、その原因をつくってしまった〝私〟の抱く罪悪感が膨張していくような気がして、耐えられなかった。


 落ち着いてきていた息が再び上がり、喉の奥が乾いてひりついた。脚には異常な倦怠感がまとわりつき、その感覚を麻痺させる。しかし、私は走るのを止めなかった。




 家に着いたのはいつもなら夕飯を食べ終わっているような時間だった。部屋の中は既に薄暗く、晩夏の太陽が僅かに残す地平線越しの光だけが窓から注がれ、物の輪郭を鈍く浮かび上がらせていた。


 私は居間へ入って後ろ手にドアを閉めると、そこに背中を預けるようにしてずるずるとその場にへたり込んだ。それは体に溜まった疲労のためでもあったが、それ以上に〝私〟が感じている重荷に耐えきれなくなったという意味合いの方が強かった。


 その時ポケットがいつもよりも重いことに気づいた私は、今更になってそこに五十沢幽のスマホを入れていたことを思い出す。私はそれを取り出すと、もう一度電源ボタンを押してみた。やはり反応はない。


 私は重い腰を上げ、拾ったスマホをウェットティッシュできれいに拭いてからそれを充電コードに繋いだ。幸い、充電端子内部に土などが入り込んだりはしていなかったようで、充電コードは意外にもすんなりと接続できた。


 夕飯と洗濯を急ぎ足で済ませると、私は再びスマホを取り上げた。どの種の感情に起因するかわからない緊張を覚えながら、電源ボタンを長押しする。十秒ほど押してみても反応がなかったので、駄目かと思いながら手を放し、もう一度押し直す。すると、ブブッと小さく震える音が聞こえてメーカーのロゴが表示された。


 起動後、画面右上には電池残量が表示されていたが、軽く二時間ほどは充電コードに繋いでいたのにも関わらず、それは38%という低い数字に留まっていた。


 五十沢幽であった時の〝私〟の記憶を頼りにパスコードを入力し、その中身を見て驚いた。とあるSNSのアイコンの左上に赤丸のバッジに白字で〈99+〉の字が表示されていたのだ。


 私はすぐにアプリを起動し、その通知の内訳を確認する。〈まり〉という名前のアカウントから四件の通知があり、〈しんせー〉という名前のアカウントから少なくとも百件以上の通知が届いていた。


 私は迷わず通知数がカンストしている方を真っ先に開く。八月五日の日付が最新のものになっており、直近には通話のリクエストが大量に入っていた。それを遡っていくと通話のリクエストに紛れてちらほらとメッセージが目につくようになる。


――頼む 一言でいいから連絡してくれ

――なんか気にさわることしちゃったなら謝るから

――今日 いつもの公園で待ってる


 私は嫌な汗をかきながら画面を一気にスクロールし、新着メッセージの先頭を探し出そうとする。そして幾度ものスクロールの末、七月二十日の日付まで来たとき、私は戦慄した。そこにはあの日私が足を止めた理由である一文があった。


 つまりそれは、こちら側から送信された最後のメッセージだ。


――新星 今までありがとう


 きっと襲われた時に予め入力されていたメッセージが誤って送信されてしまったのだろう。たった一文のメッセージだが、五十沢幽の境遇を知る彼にとって、このメッセージが持つ意味の深刻さは計り知れない。


「あ、あぁっ……」


 喉から喘ぎ声が漏れ、手からスマホが滑り落ちた。突然足の力が抜け、腰が抜けた人のようにその場に頽れる。〝私〟は自分のしたことの重大さをこの時初めて認識した。


 彼は単に五十沢幽を探していたわけではなかった。あの時の彼の懇願するような問いは、ほとんど五十沢幽の生死を問うているのに等しかった。


 そして今、〝私〟はそれに対する明確な回答を持っている。その残酷な事実が、まるで断罪者のように〝私〟を糾弾する。「お前のせいだ」と〝私〟を責め立てる。


「〝私〟のせいじゃない……」


 私はぎこちなく首を横に振りながら呟いた。立ち上がれないまま、落としたスマホから逃げるように距離をとる。


 そうだ、これは〝私〟のせいじゃない。五十沢幽を襲った犯人が悪いのだ。この意味不明な転生という呪いがいけないのだ。だから〝私〟は悪くない。そう何度も頭の中で主張し続ける。


 しかし、自殺するかどうかで逡巡し、足を止めるようなことさえなかったのなら――そんな可能性を考えずにはいられなかった。そしてそんな考えが増幅装置となり、「お前のせいだ」と繰り返す声はさらに〝私〟の中で勢力を増していく。


「ちがうっ――!」


 悲鳴のような金切り声で私は叫んだ。耳をふさぎ、その場にうずくまる。痛いほどに瞑った瞼の裏には今日見た彼の虚ろな表情が焼き付いる。〝私〟はそれを必死に五十沢幽として生きていたときの記憶で上書きしようとした。しかし、その試みはかえって〝私〟の記憶の方を次々と壊していった。


「〝私〟のせいじゃ……」


 否定の接尾辞が潰れた。〝私〟の中から久々利新星の笑顔が消え、その残滓が罪悪感となって残っている。そこまできてようやく、〝私〟は自身の欺瞞に気がついた。


 転生すればやり直せるという考え方が大嫌いだ――そう言いながら、どこか転生を都合よく利用しようとする〝私〟がいた。次の〝体〟は今よりマシかもしれないと期待するのは、もはややり直せると考えているのに等しかった。


 しかし当たり前のことではあるが、それは文字通り「やり直す」ことにはなり得なかった。一度起きてしまったことはもう取り返しがつかない。たったそれだけの道理に、どうして〝私〟は気づくことができなかったのだろう。


 今、彼は何を思って日々を過ごしているのだろうか。ほとんど遺言ともとれるあのメッセージを受け取ってから一ヵ月経った今、なおも五十沢幽を探し続けている彼が望んでいることとは一体何なのだろう。果たして、〝私〟は彼に真実を伝えたほうが良いのだろうか。


 私は伏せていた顔を少し上げ、上目遣いで床に転がっているスマホを見た。既に解約されているそのスマホは、私が自分のスマホでテザリングでもしない限りネットには繋がらない。そのため、私がメッセージを見たことはまだ彼には伝わっていないだろう。彼の方ではまだ既読がついていないはずなのだ。


 私は迷っていた。八月五日でメッセージが止まっているのは、そのタイミングでスマホの電源が切れてしまったからだろう。であれば、それ以降にも彼からメッセージが送られてきている可能性は高い。ひょっとすると、それを見れば今の彼の胸の内を知ることができるかもしれなかった。


 しかし、その行為は同時に彼に要らぬ期待を抱かせてしまうことにもなる。メッセージに既読をつけるということは、絶望という結末を知ったうえで希望を売りつけるようなものだった。


 少し考えてから、私は五十沢幽のスマホを拾いあげ、それをマナーモードにしてから充電コードに繋いだ。それから母宛のメモに〈道で拾ったスマホを充電中です。明日交番に届けます〉と残した。念のため〈落ちていた場所を説明してきます〉とも書いたので、母が代わりに交番に届けに行くようなこともないだろう。


 一刻も早く寝てしまいたかった。可能なことなら永眠したいと願う。無論、それは常日頃から〝私〟が切望してやまないことでもあったが、今日の動機はそれとは性質を異にしていた。


 今はとにかく、少しでもこの罪悪感を意識しないでいたいと、ただそれだけを考えていた。




 朝起きたとき、私の頭はいつもよりぼんやりしとしていた。隣にある母の布団は綺麗に畳まれており、リビングの方からも物音は聞こえてこない。いつも通りだと思いながら私は体を起こした。


 しかし、忘却という救いはあまりにも儚かった。私はリビングに出てそのスマホが充電器に繋がれているのを目にすると、まるで瘡蓋を剥がされた傷口から血が溢れ出すように前日起きたことの全てを鮮明に思い出させられた。


 私は強い不快感に襲われながら、そのスマホから充電端子を引っこ抜き、それを通学用のデイパックの奥へと押し込んだ。できれば持ち歩きたくないものだったが、交番に届けると言った手前、そのまま置いておくわけにもいかなかった。


 正直このスマホをどうすればいいのか私にはわからなかった。仮に交番に届けたとしても、待っているのは保管期間を過ぎて廃棄される未来だけ。〝私〟はその持ち主がもう絶対に現れないということを知っている。


 その未来を拒むのは、これを処分するということにどこか忍びない気持ちがあったからだった。言ってしまえば、これは五十沢幽が遺した唯一ともいえる形見の品なのだ。軽々と扱えるような代物ではない。


 しかしその気持ちとは裏腹に、早くこれを手放したいという気持ちが強いのも事実だった。一刻も早く〝私〟はそこに残されていたメッセージと、それに係る一切合切を忘れてなかったことにしたかった。


 もう〝私〟は五十沢幽ではない。それは昨日のことで十分すぎるほどに思い知らされた。ならばもう〝私〟には関係のないことだと割り切ってもいいはずだ。今までそうしてきたように、今回も全てを忘れ去ってしまえばいい。〝私〟は自身をそうやって説得しようとも試みた。


 だがそれは五十沢幽であった時の〝私〟を切り捨てる行為に他ならなかった。それを続けてきた結果、今〝私〟は自分自身が何者であるかを見失ってしまっている。これ以上失ってしまったら、今度こそ〝私〟は今の〝私〟ではいられなくなるような気がした。


 結局〝私〟はスマホの処遇を決めかねたまま一日を過ごし、下校の時刻を迎えてしまった。教科書やノートを机から引き出してデイパックに詰めていく際、奥でコツンと固いものにひっかかる感触に思わず眉をひそめてしまう。


 しかしその不快感は、望まない形で払拭されることになった。


「さやっちー!」


 突如背後から投げかけられたその声に、私の頭の中は一瞬にして私情への憂慮から恐怖の一色に塗り替えられてしまった。


「この後さぁ、ちょっと付き合ってくんない?」


 そう言いながら彼女は私の首に手をまわす。これが彼女のいつもの手口だった。こうなってしまうと、この〝体〟はまるでセリグマンの犬のように学習した無力感によって抵抗する気力を失う。そうして、私は彼女に拘束されたまま昇降口を出ることになってしまうのだ。


「おーい。りなっちー!」


 彼女が手を振った先にはいつもの女子生徒二名がいる。しかし、今日はそれだけではなかった。そこにはなぜか〝私〟の知る人たちの姿があった。


「あれ? 香苗って今日部活あるんじゃなかった?」

「まーそーなんだけどさー? こっちの方が面白そうじゃん?」

「サボりじゃん」

「細かいこと気にすんなって。で、そっちがりなっちの友達?」

「そ。みなみとその友達」


 石本みなみ。〝私〟が五十沢幽だった時にいじめの主犯格だった彼女がまさかこちらのいじめグループともつるんでいたなどとは思いもしなかった。五十沢幽といういじめの対象がいなくなり、その代わりを大森沙夜に求めているのだとしたら、それは考え得る限り最悪の事態だった。


 私は何か打開策はないかと必死に頭を回転させたが、それは恐怖と焦燥をいたずらにかき混ぜるばかりに終始した。彼女たちの興味が雑談から私へと向かう前に何か手を打たなければいけないのに、何ひとつ有効な手段が思いつかない。走って逃げ出したところで、あちらには陸上部がいるし、そうでなくてもこの〝体〟の足では逃げ切れるわけがない。


 もはや万事休すかと思われたその時だった。


「大森さん、お待たせー」


 校舎の方から声が飛んできて、私は振り返った。そこには肩の横で手を振りながらこちらに近づいてくる彼の姿があった。私の名前を呼ぶ声に反応して、近くにいた加害者たちも揃って彼の方に振り向いた。


「ちょっと、なんであいつが来るのよ」

「え、誰?」


 小声でそんなやりとりをする声が聞こえたが、当の彼はそんなことは気にも留めず、私の方を指さして言った。


「悪いんだけど大森さん借りてくね、昨日からそういう約束だったからさ」


 もちろんそんなことは初耳だったが、これが彼の助け舟であることは明白だったので、私は彼の言葉に続くように急いで言葉を継ぎ足した。


「そ、そう! 今日は久々利さんとの約束があるから……」


 私を連行してきた陸上部員が「はぁ!?」と声を荒らげる。その後ろからは小さく舌打ちをする音が聞こえてきた。石本みなみらのグループは、揃って忌々しいと言わんばかりの視線を彼に向けている。


「じゃぁそういうことだから。いこっか。大森さん」

「う、うん」


 私は校門に向かって歩き出す彼の背中に小走りで追いついて歩幅を合わせると、後方から向けられる恨めしそうな視線から逃れるように、校門を右手の方へと曲がっていった。


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