第四話 夏目漱石の戒厳

 今日で夏休みが終わる。大森沙夜おおもりさやとしての生活も約一カ月が経とうとしているが、この〝体〟にも大分馴染んできた。


 転生後しばらくの間は〝私〟がしようとすることと〝体〟のとる行動とのギャップに戸惑う期間があるのだが、ある程度時間が経つと、一方がもう一方にチューニングしていくのか、あるいは相互的に歩み寄っていくのか、どちらにせよそのギャップはだんだんと小さくなっていくのが常だった。


 窓から見える空が赤みを帯びているのを見て、私は夕飯の準備をしなければいけない時間であることを認識する。今日のメニューはカレーライス。二人分だけ作れればいいので、さほど時間もかからないだろう。そう思いながら台所に立つ。


 古くも新しくもないこの1LDKのアパートは、二人で住むのには十分な空間だった。とはいえ、実情はほとんど私一人が使っているといっても過言ではない。同居人の母は朝私が目覚める頃には朝食とメモを残してすでにいなくなっているし、帰りも二十三時前後とかなり遅い。今のこの生活は、非正規雇用でいくつもの仕事をかけもつ母によって辛うじて支えられているのを私は知っていた。


 炊飯器のスイッチを入れ、ジャガイモと人参を洗ってピーラーで皮をむく。玉ねぎを切っていると、空気中に放出された催涙成分が眼鏡を迂回して目に染み込んできた。経済的な理由で肉は入れられないので、普通のそれよりも野菜を多く使用する。


 調理を進めながら、転生後の数日間はこの夕飯すらも母親に頼っていたことを思い出し、とても申し訳ない思いになる。働きづめの体にはきっと応えたことだろう。

しかし、あのときは本当にどうしようもなかったのだ。


「痛っ」


 皮をむいて水につけておいたジャガイモを取り出そうとして、その中に一緒に沈んでいたピーラーに小指の第一関節付近を引っかけてしまった。私はティッシュで傷口を抑えつつ、リビングの壁際に置いてあるいかにも安っぽいプラスチック製の引き出し収納から絆創膏を取り出し、それを指に巻き付けた。


「うわぁ、結構血出ちゃった……」


 滲み出た血が早くも絆創膏の表面を赤く染め始めていて、これは心配性の母には隠しておかなければと思った。母が帰ってくる前に絆創膏を張り替えるのがいいかもしれない。そう思いながらキッチンに戻る。


 十九時になるより十分ほど前に炊飯器が炊き上がりを告げる電子音を響かせた。私は二枚の皿にご飯を盛り、その上に作ったカレーを注ぎかける。そして一方の上にはラップをかけてから、二枚の皿をリビングのテーブルの上に持って行った。


「いただきます」


 軽く手を合わせてからスプーンをとる。カレーはいつも通りの出来で、おいしくもまずくもない至って普通のカレーだった。しかし、それがわかるということは救いでもある。なぜなら、それすらわからなくなるほどこの〝体〟の置かれている環境は酷くはないということなのだから。


 夏休みに入る一週間ほど前、父の暴力から逃れるようにしてここに引っ越してきた大森沙夜とその母は、以前よりも安全で快適な生活を手にすることができていた。そのため、少なくとも今の〝私〟には帰るべき場所というものがある。たったこれだけのことが、どれだけ気持ちを穏やかにしてくれているかわからない。


 しかしその一方で、生活のために日々馬車馬のように働くことになった母との交流が極端に減ったことは、この〝体〟にはとても応えることだった。たまの休日があっても、疲れ切って寝込んでいる母を見るばかりで、日々寂しさは募るばかりだ。


 そしてその寂しさに拍車をかけるのが、〝私〟の中に残り続ける五十沢幽として生きていた時の記憶だった。


 小さなアパートの一室で開かれたたった三人だけの小さなパーティー。久々に感じることができた味というものへの感動。いつも寄り添ってくれていた彼の存在――それらへの追憶が反動となり、孤独感が不必要なまでに膨れ上がってしまう。


 期待をするから裏切られる。希望を持つから絶望する。そんなことはもうとっくの昔に学習したと思っていたのに、どうしてまた同じ過ちを繰り返してしまったのだろう。ただ淡々と、自殺を決行していればよかった。彼の誘いを断って、帰りに適当な山の中かどこかで首を吊っておけばよかった。そうしておけば、少なくともあんな死に方はしなかったはずなのに――


「うっ……!」


 迂闊にも思い出してしまった五十沢幽としての最後に、食べ終えたカレーを戻しそうになる。口元を必死に手で押さえ、もう片方の手で胃のあたりをさする。ゆっくりと呼吸を落ち着かせ、私は胃酸が下りていくのを静かに待った。


 今日はもう寝た方がいいかもしれない。いささか寝るのには早すぎる気もするが、明日はいよいよ学校にも行かなければいけないし、学校に行くのは転生後初めてのことになるので少なくとも体力的な余裕くらいは確保しておきたかった。


 キッチンで自分が使った皿を洗い、母宛に軽い伝言を書いてラップがかかったカレーの横にそれを置くと、私は隣の寝室へと入っていった。敷布団を母の分まで敷き終えると、私は一冊の本とともにその中に潜り込む。小さなスタンドで手元を照らし、しおりの挟んであるページを開いた。


 私が手にしているのは夏目漱石の『こころ』で、今読んでいる部分は〈先生〉が嫉妬心に駆られて〈友人K〉を出し抜き、〈お嬢さん〉と婚約するというシーンだった。


 この小説の特徴的なところは、このような三角関係が登場するにも関わらず、〈お嬢さん〉の魅力や人物像などについてはほとんど語られずに物語が進行するところだ。もっとも、この小説は恋愛小説という分類にはおそらくならないので、そこに力点を置く必要はなかったのかもしれないが、それでも現代の恋だの愛だのを軽々と扱う尻軽的な作品よりも間接的な手法でその実体をリアルに描きだしているような気がしていた。


 そう思いながら読み進めていると、〈先生〉が〈お嬢さん〉を諦めるように〈友人K〉を説得するシーンのとあるセリフが目に留まった。


――精神的に向上心のないものは馬鹿だ。


 〝私〟はどきりとした。授業中に突然名指しされたかのような、そんな嫌な緊張だった。


 このセリフは〈友人K〉が自身で言っていたことを〈先生〉が引用したものだったので、夏休み中に『こころ』読み始めた私は既に一度この言葉を目にしているはずだった。それなのに、今改めてその言葉が出てきて初めてどきりとしたのは、その時の読書が〝私〟にとっては違う意図のもとになされた行為だったことの証左なのだろう。


 この〝体〟は読書をしている時が最も安定している。片方が片方を一方的に支配するわけではないこの転生生活において、〝体〟の嗜好に合わせて行動することは〝私〟のためにもなった。大森沙夜として生きる上で、読書は現実逃避の最適解だった。


 私はもう一度ゆっくりと、そして恐る恐るその一文に目を通す。


 精神的に向上心のないもの――それはまるで〝私〟を見透かしているような文章だった。


 〝私〟という存在を何かしら一般的な言葉で表すとして、そこにどんな言葉を当てはめるのが適切なのかは未だによくわからない。しかし少なくとも、この文章が単なる「人」という概念以上の広い範囲を――つまり、〝私〟をも糾弾の射程に収めていることは確かだった。


 転生したって〝私〟という本質は変わらない。ならば、その本質を変えようとしない〝私〟が馬鹿なんじゃないか。そんな叱責と罵倒を受けたような気がして、急に居心地の悪さと心臓の奥の痛みを感じる。


 何かがかき乱されるような感じに一種の嫌悪感さえ覚え始めた私は、気を紛らわすためにその先を読み進めた。しかし、その言葉は何ページと捲らないうちに二度、三度と姿を現し、その度に私のページを捲る速度は上がっていく。


 そして仕舞いには、〈先生〉に裏切られたことを知って自殺した〈友人K〉の遺書に綴らる「もっと早く死ぬべきだったのに、なぜ今まで生きていたのだろう」という文句を目にして、私は『こころ』を壁にたたきつけた。




 次の日の朝、制服はクリーニングして寝室のクローゼットの中に入れてあるという旨の母のメモが朝食の横に置かれていた。


 私はトーストを焼き、用意されていた目玉焼きとサラダのラップを剥がして朝食を摂る。それから洗面所で顔を洗って歯を磨き、制服に着替えるべくクローゼットを開け――そこで私は固まった。


 クリーニングから帰ってきたままの薄いビニールを被っているその制服に見覚えがあった。それも、遠い過去の記憶との一致などではない。ごく直近の、大森沙夜に転生する直前の――五十沢幽として生きていたときの記憶との一致だ。


「こんなことって……」


 もう幾度繰り返したかわからない転生のなか、未だ経験したことのない現象に言葉を失う。まさか同じ学校に通う生徒に転生するなんてことが起こるなど、想像したこともなかった。


「随分と不幸の多い学校なようで」


 私は皮肉たっぷりにそう吐き捨て、制服を覆う薄いビニールを力任せに引きちぎった。




「ねぇ、さやっち。ちょっと付き合ってよ」


 四時限目の授業が終わるや否や、その生徒は私に声をかけてきた。心臓がきゅうっとなる感覚と、汗腺が冷たくなる感覚が走る。


「私…‥た、体調悪いから保健室に……」

「えー? なにー? 聞こえなーい。もっとおっきな声で言ってくれるー?」


 わざとだとわかっていても反論ができない。この〝体〟も〝私〟も、抵抗するという行為を知らないのだ。


「私たちの仲でしょー? ちょっとだけだからさー」


 そう言いながら彼女は私の肩に手をかけた。もうこうなってしまうと逃れようがない。この小柄で貧弱な体形では、女子とはいえ陸上部で鍛えられた体に適う道理がなかった。私は彼女の意志の赴くままに教室から連れ去られ、屋外の日陰の多い場所まで連れてこられる。そこでは他に二人の女子生徒が待っていた。


「香苗ー、遅いぞー」

「わりぃわりぃ、こいつがあまりにもとろくってさー」

「まじ? あたしらの貴重な時間無駄にするとかサイテーなんだけど」


 私と私を拘束する香苗と呼ばれる生徒がその二人に合流すると、そのうちの片方が立ち上がって私の方に歩み寄り、私を突き飛ばした。


「ほら、さっさといつもの出して」


 先程までの仲間同士の会話とは違う低い威圧的な声が転倒した私の頭上から浴びせられた。「いつもの」という言葉の意味はこの〝体〟の記憶の中に確かにあった。私はほとんど無意識のうちにポケットからそれを取り出していた。


「ちんたらしてんじゃねーよ」


 彼女は私の手からそれを奪い取ると、その中を確認した。


「はぁ? 千円しかないわけ? 夏休み中に用意しとけっていったよねー?」

「こいつわざと隠してんでしょ」

「香苗、やっちゃって」

「はーい」


 楽し気に返事をした彼女は前髪を掴んで私を無理やり立ち上がらせると、その鍛えられた右腕で私の鳩尾に強烈な一発を叩きこんだ。激しい痛みと同時に呼吸ができなくなり、私はその場に崩れ落ちる。加害者たちは笑い声を上げながら横たわる私のそばを通り過ぎて校舎へ戻っていき、千円札を抜き取られた財布は私の前に放り捨てられた。


 呼吸が再開しても、私は少しの間立ち上がれないでいた。身体的な理由ではない何かが重くのしかかっている。やっとの思いで体を起こし、目の前に転がっている傷だらけの財布を拾い上げてその中身を確認する。そこではだら銭がじゃらじゃらと虚しい音をたてていた。


「お母さん、ごめんね……」


 それは〝私〟というよりはこの〝体〟の影響から出た言葉だった。


 去年の夏休み明けから始まったこのいじめは、本当に些細なことがきっかけになっていた。ある日、飲み物を持って歩いていた私に彼女らの一人がぶつかってきて、その拍子に零れた中身が彼女の持ち物にかかってしまった。しかしその持ち物は彼女の主張するところによれば高級品だったようで、それ以降弁償しろと金をたかられる日々が始まった。


 ある時、財布の中が急激に干からびていくことを母に気付かれ、「高校生にもなると色々と使い道もでてくるわよね」と母が自らの財布からお金を出そうとしてくれた時には軽く口論になってしまった。その時はまだ父親とも同居中で、ストレスがかかりっぱなしの状況の中、うまい言い訳を考えられるような余裕は私にはなかった。


 そして今はその時以上に母親からお金を貰うことが憚られた。日々やつれ、急に老いを感じさせるような顔になっていく母からお金を貰うことを私は嬉しいとは思えなかった。お小遣いすらもいらないと、その分だけ少しでも休んでほしいと、そう思う。あの父親から逃げることを提案してくれた母が、そのせいで衰弱していく姿を見るのは途方もなく辛かった。


 だからこそ、その母にこれ以上心配をかけるわけにはいかなかった。私が少しの苦痛を耐えるだけで済むなら、それでもいいと思った。


 しかしその一方で、母が一時間働いてやっと手にする金額を「千円しか」と貶めつつ奪っていく彼女たちに、怒りをぶつけられない弱い自分自身がどんどん許せなくなっていった。母親へのあまりに強い思慕は、かえって自身を傷つける刃にもなった。


 教室に戻り、小さな弁当箱を平らげ、何事もなかったかのように午後の授業を受け、それから帰路につく。五十沢幽の時と同じ徒歩ではあるが、歩く距離も歩かなければいけない理由も五十沢幽のそれとは全く異なっていた。


 二十分ほど歩いて帰宅し、制服を脱いで私服に着替え、それから洗濯物に取り掛かる。母が頑なに「そんなこと沙夜がやんなくていいの」と主張するのをなんとか説き伏せて勝ち取った家事だが、やはり楽しいものではないなとも思っていた。夕飯の準備を自分ですると言ったのもその時だった。


 乾いた洗濯物を畳み、それをしまうために寝室に入ると、開いた状態で壁際に転がっている『こころ』が目に入った。拾い上げると、ページはところどころ折れており、開きになっている方の角が変形していた。


「多分、もう読まないよね……」


 それでも折れたページを丁寧に整えてから本棚に戻したのは、この〝体〟が本好きであることに由来しているのだろう。家事を手伝うために文芸部を辞めたのはきっと苦渋の決断だったに違いない。


 洗濯物を終えるといい時間だったので、私は夕飯づくりに取り掛かった。出来上がった料理の半分はいつもどおりラップを被せて置いておき、もう半分を自分が食べる。食器を洗った後、極力節約に努めたシャワーで汗を流し、リビングの机を借りて宿題を済ませる。そうして二十三時を少し過ぎる頃、玄関の方でガチャリという音がした。


「ただいま、沙夜」


 誰の目にも疲れが見てとれるその顔は、それでもなお努めて笑顔をつくっていた。


「おかえり、お母さん」


 勉強を終えて丁度読書を始めたときだった。テーブルの上のおひたし以外の夕飯をレンジで温めようと、私は席を立つ。


「久しぶりの学校はどうだった?」


 私はぎくりとした。反射的に財布に意識がいって、それが母の目につく場所にないことを頭の中で確認する。それから私は硬直した筋肉を意識して弛緩させ、母にばれないように平静を装った。


「別に、普通だったよ?」


 私の返事に、母は「そう」と小さく返しただけだった。荷物を置き、背もたれに全身を預けるようにして座る母を横目に見ながら私は思う。どうしてこれ以上この優しい母に重荷を背負わせることができようかと。


 もし私が学校でいじめられているなどと知れば、きっと母は折れてしまう。私が幸せそうにしているのが母にとって一番の支えになる。だから絶対にばれてはいけなかった。


 ごはん、味噌汁、煮物の順に温め終わった料理を母の前に置いていく。一通り温め終わったのを確認して母は煮物から箸をつけた。


「あら、おいしい。沙夜、また一段と料理が上手になったんじゃない?」

「お母さんには負けるよ」

「そんなことないわよ。将来の旦那さんもきっと喜ぶわ」

「一体何年先の話? それ」


 母のお世辞を軽くいなしながら母との短い団欒を過ごす。それでも二十四時が迫ってくるとだんだんと眠くなってくるので、私は後ろ髪を引かれる思いになりながら母におやすみを告げた。




 学校が始まってから約一週間が過ぎた。私は財布として機能しなくなると、鬱憤晴らしの道具として扱われることになった。彼女たちの気まぐれに左右される生活は、いつまた呼び出されるのかという恐怖を常に煽り、気の休まらない状態を私に強いていた。


 今日も私は鈍い痛みを背負いながら帰路についていた。ポケットの中に納まっている財布はもはや音を立てることすらもできなくなっている。私はぼんやりと家に帰ったら何をすべきかを考えていた。物理的にだけでなく、精神的にも家に近づいておきたかった。


 その時、目の端に人影が写った。私は見覚えのあるその姿にはっと息をのむ。交差点の向こう側、買い物帰りの主婦たちが駄弁っているその奥で、杖を突く老人とすれ違うその人物は〝私〟の記憶をこれでもかというほど揺さぶった。


 直視していなかった可能性。もしかしたらそんなこともあるんじゃないだろうかと思っていたこと。それが実際に起きたとき、〝私〟は自分でも驚くべき行動をとっていた。


 信号が青になるやいなや私は駆け出していた。彼が曲がっていった方へ〈止まれ〉の標識を支えるポールを掴んで勢いよくターンする。数メートル先にその背中が見えた。地面を蹴る力が一層強くなる。そうしてついに追いついた私は、その人物の制服の袖を掴んでいた。特に運動が苦手なこの〝体〟は、はあはあと息を切らしていたが、その粗い息を押しのけるようにして私はその名前を口にした。


「新、星……!」


 不思議な感情の高まりを感じる。一瞬の運動による体温の上昇ではない熱が〝私〟を包む。嬉々として私は顔を上げる。そして悟る。その大きな勘違いを。


「君、誰?」


 突如氷水の中に投げ込まれたかのような感覚が走る。考えてみれば当然の帰趨でありながら、あまりにも無慈悲な現実が私の前に突如として現れた。


「あ……」


 悲鳴に似た声が出る。彼の目が、死んでいた。〝私〟の知る彼の顔ではない。しかし、別人でもない。あまりの変わりように、私は言葉を失う。数秒間の沈黙が流れた。


「あのー……用がないなら、もう行くんで」


 彼は虚ろな声でそう言い、私の掴んでいた袖を振り払って背を向けた。私はそれを反射的に掴みなおし、なお彼を引き止めると、必死に訴えた。


「私だよ?」


 口をついて出た言葉に私ははっとした。果たしてこの「私」とは一体誰の事を指しているのだろうかという疑問が脅迫的なまでに私を苛んだ。それは当然この〝体〟のこと、つまり大森沙夜のことではない。しかしその一方で、それは五十沢幽を指しているわけでもない。だとすれば、彼が求める回答を〝私〟は持っていない。


「は?」


 彼が訝し気な視線をこちらに向けた。視界が歪む気がした。この先に発するべき言葉を持っていないことを自覚してしまった〝私〟は、突然絶望の沼に沈んでいく感覚に襲われる。ずぶずぶと黒い渦に飲み込まれ、溺れそうになる瀬戸際で、藁にも縋る思いで発した最後の言葉は、とてつもなく空虚な単なる音の連なりだった。


「〝私〟……だよ?」


 そう繰り返す以外に選択肢は無かった。もう自分がどんな表情をしているのかさえ分からない。そしてその結果は、もはや火を見るよりも明らかだった。


「いや、気持ちわりぃよ、お前」


 冷たい言葉とともに私の手は乱暴に振りほどかれた。その言動の一つ一つが、〝私〟の知る彼のものとはまるで異なっている。


 私は足早に去っていく彼の背中をもう追うことができなかった。追う理由がないことに気づいてしまった。ジリジリと照り付ける太陽が陽炎を揺らし、どこからともなく聞こえてくる蝉の声が空っぽになった私の頭の中でこだました。


「私……」


 一人佇む私は震える声で呟きながら自分の手を見た。


「〝私〟は……誰?」


 急に突き付けられた問いの答えは既に忘却の地平線に沈み、自力でそれを見つけ出すことはもう不可能になってしまっていた。

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