第三話 再来の味

 私たちは学校から徒歩十五分ほどのところにあるスーパーで買い物をし、それから彼の家に向かうことにした。市内に向かう方向ではないので、他の生徒たちの姿もまばらで、気持ちは随分と楽だった。理由は判然としないが、なんとなく彼と一緒にいるのを見られるのには抵抗があった。


「メニューはたこ焼きで大丈夫だよな?」


 スーパーの看板が見えてきたところで、彼はそう切り出した。


「あんたの誕生日なんだから、好きにすれば?」


 もっともらしい返しはしたものの、それは半分本意ではない。味覚を失ったこの〝体〟にとって、食事に何を選ぶかというのは何の栄養素をとるのかという選択と同義であり、それは文字通り味気ない行為でしかない。そのため、「なんでもいい」というのが私の本音だった。


「じゃぁたこ焼きにしよう」


 彼のたこ焼きというチョイスはおそらく最初から決まっていたことだったのだと思う。かくいう私も、そうなるだろうということはこの〝体〟の記憶から察していた。昔から彼は何かしら祝い事があるたびにたこ焼きを注文していた。


「あれ? 新星?」


 スーパーに入る直前、駐輪場の方から彼の名を呼ぶ声が聞こえ、私たちは同時に声がした方を振り向いた。そこには手に自転車用のワイヤー錠を持ってこちらに視線を向ける意外な人物が立っていた。


「え? 隆二?」


 新星が驚きの表情を見せつつ、スーパーに入るのを止めて幕原隆二の方へと歩いて行ったので、私もこそこそとその後ろに追随した。


「珍しいね、こんなところで会うなんて」

「隆二の方こそ、女子とカラオケにでも行ってるのかと思った」

「今日はあんまりそういう気分じゃなくてね。新星の方こそ、あんまり女子には興味ないタイプなんだろうなって思ってたのに」

「ばっ! そんなんじゃねーよ! 幽は昔からの幼馴染で、今日はその……俺の誕生日を祝ってくれるっていうからさ」


 なんで私から申し出たみたいな物言いになっているんだと思ったが、指摘するのも面倒なのでスルーする。


「へぇ、そうなんだ。今日って新星の誕生日だったんだね。だったら僕も一緒にお祝いさせてもらってもいいかな?」

「え?」


 思わず口から漏れた一音に私はハッとし、急いで口を噤む。だが、この距離では流石にそれを誤魔化すことはかなわなかった。


「あ、もしかしてお邪魔だったりするのかな?」


 その言葉に茶化すような意図は一切なく、彼はあくまで爽やかな笑みを浮かべていた。


「い、いや!? ぜんっぜん邪魔じゃねーよ!? 寧ろ嬉しいくらい!」


 逆に誤解を加速させそうな新星のオーバーリアクションに私は頭を痛めたが、それに対する幕原隆二の対応は実に穏当なものだった。


「そっか。それならよかった。僕は一度家に帰らなきゃなんだけど、どこに集まればいいかな?」

「あぁ、それなら俺んに来てほしいんだけど……」


 彼はスマホを取り出して幕原隆二になにやら説明を始めた。おそらく地図アプリを使って道順を教えているのだろう。


 私はといえば、幕原隆二が来ることについてはかなり複雑な感情を抱いていた。一年生のときからクラスが同じとはいえ、特段交流もなかったわけで、どう接していいのかいまいち距離感がつかめない。しかし、今日の主役である新星が来てもいいと言っている以上、私がそこに異議を唱えるのも憚られた。


「じゃぁまたあとでね」

「おう」


 軽く別れの挨拶を交わし、新星と私がスーパーの中へと足を向けると、その後ろで自転車が駐輪場を出ていく音がした。




 お昼時を少し過ぎたスーパーは人も少なく、冷房が十分に効いているため非常に快適だった。私は粉ものが並ぶコーナーでたこ焼き粉を選び取って、それをかごの中に加える。


「長ネギ、天かす、紅ショウガ、それからタコ……と。卵はあるって言ってたし、あとは青のりとお好みソース……それから削り節かな」


 私はこの〝体〟の昔の記憶を頼りに、材料を一つずつ頭の中で確認しながらソースの売り場を探し始める。すると、手に持っているかごに小さな衝撃が走ったので中を確認すると、奇妙なことにチーズが投げ込まれていることがわかった。


「なんでチーズがいるのよ?」

「え、知らないのか? タコの代わりにチーズ入れるとめっちゃうまいんだぜ?」

「ほんとにぃ?」

「まじだって」


 私は彼の言にやや訝しさを感じつつも、特にかごからチーズを除くわけでもなく、店内を回って足りない材料をその上へ追加していった。


「多分これで大丈夫だと思う」


 たこ焼きを作る材料を一通り揃えた私は、若干気後れしながら買い物かごを新星に手渡した。どのみち私の財布の中にある貧弱な小銭たちにこの規模の支払い能力はないので、材料費は彼に持ってもらうしかないのだが、やはり申し訳なさは拭えない。


「オッケー。じゃぁあとは――」


 てっきりレジに向かうものとばかり考えていた私は、レジに背を向けて歩き出す彼を見て何を買う気だろうと首を傾げた。しかしその答えは実に単純明快で、彼の向かった先はお菓子の陳列棚だった。


「幽も好きなの選んでいいぜ」


 彼はそう言いながら手当たり次第にお菓子をかごの中へ放り込んでいった。私はそんな彼に昔の面影を見た気がして、安堵とも呆れともつかないような息の付き方をすると、先にスーパーの出口へと向かうことにした。


 しかしその途中、目の端にあるものが飛び込んできて私は思わず足を止める。そしてすぐさま財布を取り出して手持ちの小銭を数え、ギリギリ支払える金額であることを確認すると、私はそれを手に取ってレジへと向かった。




 彼が住んでいるのはワンルームのアパートだった。敷地の入り口には〈入居者募集中〉の看板が立ててあり、〈Wi-Fi完備〉や、〈冷蔵庫・洗濯機有〉のような謳い文句が目立つ赤色で書かれている。


 201と記された扉の前で彼はカバンから鍵を取り出し、それを鍵穴に差し込んだ。ガチャリと音を立てて開錠された扉を開けながら、彼は私を手招きする。


「おじゃまします」


 靴が辛うじておける程度の小さな三和土たたきで靴を脱ぎ、部屋の中へと入る。大雑把な彼の性格からして、散らかっているかもしれないと思っていたその部屋は、意外にも綺麗に片付いていた。部屋の隅に畳んで置いてある敷布団は、なんとも生活感を醸し出している。


「ゆっくりしてってよ。狭いとこだけど」


 彼は苦笑しながら壁際に立てかけてあった折り畳み式の机の脚を展開していった。


「へぇ、シャワールームがあるんだ」


 玄関の占める領域と部屋の大きさから考えて、玄関の横に何かしらの空間がありそうだなと思っていた私は、部屋の中にその空間に面した白い扉を見つけていた。


「トイレと一緒だけどな。でもなんだかんだそれがあるのはありがたいよ。まぁ風呂に入りたいなら銭湯に行くしかないんだけどな」


 彼はそう言いながら私の前で恥ずかしげもなく着替えを始めた。もっとも、彼は制服を脱ぐだけでTシャツ短パン姿になったので、隠すべきものは特にないようだったが。


「あ、しまった。幽って今日ジャージとか持ってきてたりするか? 流石に制服姿で料理はまずいよな……」


 彼がここにきて持ち前の無計画さを発揮した。しっかり一人暮らしをしているように見えても、やはりそういう抜けたところは変わっていないらしい。


「大丈夫、いつも持ち歩いてるから」


 毎朝の特異なルーティーンのために私は常にジャージやTシャツを持ち歩いているので、彼の懸念は杞憂に終わった。しかし問題はそこではない。


「で? ここで着替えろっていうの?」


 自分で言っておきながら若干の羞恥を感じてしまう。しかしその程度は私よりはるかに彼の方が大きいようで、彼は顔を耳まで真っ赤にしてまくしたてた。


「は、はぁ!? いや、シャワールームとかあるだろ! 変なこと言うんじゃねーよ!」


 彼の狼狽ぶりが面白かったので、私はぷっと噴きだした。そしてからかいと注意の二つの意味を込めてこう念を押す。


「覗かないでよ?」

「覗かねぇよ!」


 一連のやり取りの中、〝私〟はこういう関係っていいなと感じていた。友達でも恋人でもない、幼馴染という独特の距離感。今までに感じたことない感情の高揚が、ネガティブな思考を攪乱し、紛らわしてくれていた。


「あぁ、そうだ。幽」


 着替えを袋から取り出し、シャワールームに入ろうとする私を彼が呼び止めた。


「シャワー、かかっていったらどうだ?」

「え?」

「あー、そのー……ほら、普段あんまそういう機会、ねーんだろ?」


 言葉につっかえながらも、彼は私が予想だにしない提案をした。


「タオルはそこに置いてあるやつを使ってくれていいし、着替えはトイレの方に置いといてカーテンで仕切れば濡れねーからさ」


 彼が指さした方を見ると、シャワールームの入り口横に配置された三段ボックスの上にタオルが数枚畳んで積んであるのが見て取れた。私は彼の方に視線を戻しながら、またぞろ湧いてきた悪戯心に従って彼に声をかける。


「変な期待してないよね?」

「だからしてねーって言ってんだろ!」


 無論、私はそれが彼の純粋な優しさからの提案であることを知っていた。だが、親しき中にも礼儀ありという。これ以上は流石に彼に失礼になってしまいそうなので、私は最後の言葉をこう結んだ。


「じゃぁお言葉に甘えようかな」


 私はそう言うとタオルを一枚とって、シャワールームに入っていった。




 週に一回銭湯に行ければ良い方というあまりに不潔極まりない生活をしていた私は、彼の生活費の負担にならない程度にシャワーを満喫した。清潔感のある白いタオルで水滴を拭い、下着を身に着け、Tシャツと学校指定の名前の刺繍が施されたハーフパンツを着てシャワールームを出る。


「あ、五十沢さん。お邪魔してます」


 声をかけてきたのは先程スーパーでばったり出会った幕原隆二だった。どうやら私がシャワーを浴びている間に到着したらしい。私はなんと返したものかわからず、軽く会釈して対応した。それから小さな台所に向かっている新星の横までいって声をかける。


「使ったタオル、どうしたらいい?」

「あー、それならそこにある洗濯機の中に――」


 ねぎを刻む手を止めて私の方を見た彼の言葉が途切れた。彼の顔はぽかんとしているように見えるが、私はその理由がよくわからず首を傾げて問い直す。


「タオル、洗濯機の中に入れとけばいいの?」

「あ、あぁ、うん」


 なんだか歯切れの悪い返答だったが、とりあえず私は言われた通りに洗濯機の中へタオルを放り込んだ。


「五十沢さんってさ、髪綺麗なんだね」


 突如後方から夢にも思わない誉め言葉が投げかけられた。あまりに唐突な事態に私は虚を突かれ、返事に困ってどぎまぎとする。


「え、あ、その……どうも」


 その時幕原隆二が見せた微笑みを見て、私はなるほどなと納得させられた。彼は天然の女たらしだ。石本みなみはこれにひっかかったに違いない。そう確信させられるくらい、彼のその言動には破壊力があった。


 そして、それを目の当たりにするという学校では絶対に起きえないシチュエーションに私は動揺していた。とりあえずなんとかしてこの変な空気を紛らわそうと、私は台所に向かっている新星に再び声をかけた。


「新星、材料切るの代わるよ。新星は誕生日なんだからゆっくりしてて」

「俺は別に気にしないけど?」

「私が気にするの! 材料費は持ってもらったんだから、これくらいはさせてよ」

「お、おう。そうか?」


 私に気圧され、彼はしぶしぶ台所を譲った。まな板の上には切りかけの長ネギが乗っている。細切りというには少々分厚いような気もしたが、昔に比べれば随分マシになっているようだ。一人暮らしを始めるとこういうスキルも自然と身に着くのかもしれないと少しだけ感心する。


 だが、すぐに小学生の時と高校生の時とを比較するのはナンセンスだろうということに思い至ると、私はなぜか特に意味もなく彼の成長を否定した。


「僕も何か手伝った方がいいかな?」


 見ると、幕原隆二が隣に立っていた。「大丈夫です」という言葉が口元まで出かけたが、少し考えてから私はたこ焼き粉を手に取ってそれを幕原隆二に差し出した。


「じゃぁ、このたこ焼き粉を混ぜて貰ってもいいですか? 袋の裏に何を混ぜるかは書いてあるので」

「オッケー」


 彼にたこ焼き粉を渡す際、視界の端で新星がなにやら不満そうにしているのが見て取れた。おそらく一人だけ手持無沙汰になったことへの不満なのだろうが、誕生日くらい受け身に甘んじてほしいものだなと私は思った。


 


 ジュワッ


 熱されたたこ焼きプレートが、薄いクリーム色の生地で覆いつくされた。中の具として、半分にチーズ、半分にタコを詰め、半球の窪みから飛び出した分の生地は、火が通って固まりはじめた部分から半球の中に竹串で押し込める。そして、火が通り切っていない中がまだとろっとした状態を見計らい、それを竹串でくるっと回転させていく。


「新星も五十沢さんも、随分手馴れてるね」

「まぁな。俺の好物だからってのもあって、昔から一緒にたこ焼き焼くことが多かったし」

「そっかー。僕、実は初めてなんだよね、タコパ」

「ビビるぜ? 祭の屋台のやつよりぜってーうめぇから」

「それは楽しみだね」


 二人のそんな会話を聞くともなく聞きながら、私はもくもくとたこ焼きをひっくり返していた。少し経つと、竹串で上部をはじけば慣性で少し回転するくらいになり、色の方も全面きつね色に仕上がってくる。


「新星、お皿だして」

「ほいきた」


 私は彼が差し出した大皿の上に、チーズとタコが交ざらないように気を付けながら、焼きあがったたこ焼きを乗せていく。すべてのたこ焼きをお皿に移し終えると、私はその上にお好みソースとマヨネーズをかけ、最後に削り節と青のりを散らした。


「はい、完成」

「よっしゃ! それじゃ、いただきますっと」


 壁にかけられた時計は既に十五時を回っており、お昼を食べていない私たちの空腹はもうほとんど限界にまで達していた。


「あっふ!」


 考えなしに勢いよくたこ焼きにかぶりついた新星が、金魚のように口をパクパクさせて舌の上に乗せたたこ焼きを冷ましている。その光景は、この〝体〟の記憶の中の映像と見事にシンクロしていた。


「確かにこれは祭の屋台の比じゃないね」


 幕原隆二がそれを一つ食した後でそんな感想を述べる。


「だろ!? 遠慮しなくていいから、どんどん食ってくれ」

「ありがとう。でも今日は新星が主役でしょ?」

「そういえばそうだった」

「まったく、新星は相変わらずだね」


 談笑する二人を横目に見ながら、私もたこ焼きに手を伸ばした。新星の二の舞にならないよう、息を二、三度吹きかけてから慎重にそれを口に運ぶ。外側のカリッとした殻が破れ、中からホカホカの実が溢れ出す。中にはとろとろに溶けたチーズが入っていた。


「美味しい……」


 私は驚愕していた。具がどうだとか、焼き立てだからとか、そういったことは一切合切捨て置いて、ただ単純に美味しいと感じた。


 美味しいと、感じることができた。


 私は幻覚でないことを祈りつつ、手元に残ったもう半分を急いで口に放り込む。先程と同様に、私の舌は確かにたこ焼きの味を感じていた。数年前に失って以来一度たりとも感じることができずにいた味というものを、この〝体〟は取り戻していた。


「お、おい。幽?」


 名前を呼ばれて視線を上げると、新星がなにやら心配そうにこちらを見ていた。私は彼が何を心配しているのかわからず、どうしたのだろうと思って彼の次の言葉を待つ。


「なんで泣いてんだ?」

「え?」


 その時、私は自分の頬が透明な雫で濡れていることに初めて気がついた。


「あ、あれ? あれ?」


 私は慌ててそれを手で拭った。しかし、気づいたが最後とでもいうかのように、何度拭っても枯れることのない涙にどうしようもなくなった私は、二人の目も憚らずその場で声をあげて泣いてしまった。

 



「ったく、驚かすなよなー。間違って最初っからワサビたこ焼き作っちまったかと思ったじゃねーか」

「そんなの作んないでよ、バカ」


 私は赤くなった目をこすりながら、どこからともなくチューブワサビを取り出した新星に抗議した。


「僕もびっくりしたなー。五十沢さんがまさか味覚障害だっただなんてね」


 味覚障害であったことこそ打ち明けたものの、今日初めてまともに言葉を交わした相手にその背景まで話すつもりはなかったので、幕原隆二はそれを単なる病気として片付けていた。


「でも治ってくれてよかったよ。これで五十沢さんにも喜んでもらえるようになったはずだからね」


 私は幕原隆二の言っていることの意味がよくわからず、新星の方に目くばせしたが、彼も私と同じらしく、軽く肩をすくめただけだった。


「とりあえず次焼こうぜ!」


 彼のその一言で突然の私の啼泣に一時中断されていたタコパが再開された。四人前強は用意していた生地が、つぎつぎと丸く成形されてはそれぞれのお腹に収まっていく。途中、幕原隆二が「ちょっとだけお腹に余裕持たせておいてね」と忠告してきたので、私は彼の用意したものが何であるかを察し、その忠告に従うことにした。


 新星は私の抗議を無視して強引にタコ無し・チーズ無し・ワサビ有りの爆弾を一つこしらえると、お皿に移す段階でそれをごちゃまぜにし、「ロシアンルーレットだ!」と吠えていた。しかし、一巡目の一回目で見事に彼自身がその爆弾を引き当て、華麗なまでの自爆劇を弄したことには幕原隆二はおろか、私も腹を抱えて笑ってしまった。こんなに笑うのはこの〝体〟にとって――そして〝私〟にとって、随分と長い間忘れていた経験だった。


 全員が満足して食べる手を止めたころには、机の上には大皿半分ほどのたこ焼きと、綺麗に四分の一だけ残った五号ケーキが残っていった。ケーキは幕原隆二が宅配サービスで頼んでくれたものだった。


 それから三人でトランプやウノに興じ、時々お菓子をつまみながら談笑した。トランプではこの〝体〟にとっては久々のスピードで新星と勝負することになったが、最後にやってから何年も経っている割に技術は衰えていなかったようで、九勝一敗という戦績で今日の主役を悶絶させることができた。


 しかし、その意趣返しかのようにウノは新星の一人勝ちで、不正を疑いたくなるくらいに彼の引きが強すぎた。彼の初手が七枚中四枚黒札だった時は幕原隆二も私も流石に閉口してしまった。


「あれ? 隆二、どこいくんだ?」


 おもむろに席を立ち、玄関へ向かった幕原隆二を新星が引き留めた。


「親に遅くなるって言い忘れてたからね。あぁ、それと今日の夕飯が要らないことも伝えないと」


 彼はそう言って苦笑し、右手で電話の形を作って耳元に持っていくジェスチャーをしてから玄関の外へと出ていった。私は直感的にこの瞬間がベストなんじゃないかと思い、ポケットの中に用意していたそれを新星の方へと差し出した。


「新星、これ」

「ん?」


 なんとなく照れくささを感じ、視線を合わせずに突き出した私の左手には、いつかの夜に彼に貰ったキャラメルの箱が握られていた。


「誕生日プレゼント。こんなのしか用意できなかったけど……」


 もともとお土産として売られているはずのそれがスーパーで手に入ったのは幸運だったが、その性質上500円という高めに設定された価格のせいで、私はそれを一つしか購入することができなかった。彼は一瞬きょとんとして、それからキャラメルの箱を私の手から受け取ると、満面の笑みでこう言った。


「幽、あんがとうな!」


 標準語とは異なるこの〝体〟にとって懐かしさを感じさせる言葉でのお礼が、私はなぜかとても嬉しかった。




 時間はここ数年経験したことがない速度で進み、気づけば日は沈んで夜の帳が下りはじめていた。そしてそれと時を同じくして、ささやかな誕生会は幕引きとなった。


「ほんとにいいの?」


 私は狭い玄関で靴を履いている新星を外廊下から見下ろしながら質問した。


「いいっていいって。客人に片づけをさせるのは気が引けるしな」


 彼がそう言いながら靴ひもを結び終えて立ち上がったので、私は数歩下がって玄関の前のスペースを彼に譲った。彼が部屋に鍵をかけ、私は彼と一緒に外廊下の階段を下りていく。下では幕原隆二がロードバイクにまたがって私たちを待っていた。


「今日は楽しかったよ、新星。五十沢さんも、いろいろとありがとね」


 私は感謝されるようなことはしていないなと思いつつも「こちらこそ」と応じた。今日一日、クラスで孤立している私に、まるで他の生徒に接するときと同じようにしてくれた幕原隆二を見て、私は彼のことを誤解していたなと思った。少なくとも、単なる女たらしというわけではなさそうだ。


「今度会うのはきっと夏休み明けになるな」

「そうだね。新星は夏休み中の大会、頑張ってね」

「おうよ!」


 幕原隆二は新星に激励の言葉を残すと、ロードバイクを漕いで夜闇の中に消えていった。幕原隆二を見送りながら、私はようやく帰らなければいけないという事実の重みをじわじわと実感し始めた。


「さて……行くか」


 彼は私と一緒に帰路につくとき「帰る」という表現を絶対に使わなかった。それが彼の不器用な優しさの一つだった。


「うん」


 私の声音は沈んでいたが、それでもどこか、いつもより少しだけ冷静さがあったような気がした。しかしその代わりなのか、いやまし大きくなる寂寞が、私を困惑させてもいる。


「ところで、ここからだとどれくらいかかるの?」


 私は気を紛らわす意味も込めてなんとなしに湧いた疑問を口にした。対する彼は、なぜかまごつきながら数秒の時間を潰すと、それから嘯くような調子で明後日の方向を見ながら答えた。


「四十分くらい、かなぁ……?」

「は?」


 彼の嘘が一つ、露見した。


「こん、ちくらっぺ」

 

 自然と田舎にいたころの言葉が甦った。




 いつもと同じように、私たちは言葉を交わすことなく帰路を辿った。徐々に小さくなる私の歩幅に、彼は何も言わずに合わせてくれる。私はそんな彼を横目に見ながら、この複雑な葛藤を悟られまいと繕うことばかりに必死になっていた。


「あのさ、幽」


 とうとう脇道の入り口に辿り着いたとき、彼が私の名前を呼んだ。私はその声に振り向いて、彼と視線を合わせる。


「夏休みの大会、応援に来てくれないか?」

「え?」


 その瞬間、私の中に強烈な迷いが生じた。いや、正確にはそうではない。これはすでに生じていた迷いが具体的な意味をもって顕現しただけに過ぎなかった。


「今年はまじで全国いけそうな気がしてっからさ」


 彼が昔から努力を積んできたことは知っている。去年の大会では地区大会を優勝し、全国への切符をかけたトーナメント戦に参加するところまで漕ぎつけた。しかし、その初戦で運悪く全国優勝有力候補の一角とあたってしまい、無念にも彼はそこで敗退してしまっていた。


「……考えとく」


 〝私〟は揺らいでいた。今日という日が、〝私〟のなにかを変えようとしている。


「大会、二週間後だからそれまでには連絡くれよな」


 そう言うと、彼は私に手を振りながら全くもって近くはない彼の家に向かって帰っていった。それを見送ってから、私は残り数十メートルの距離をゆっくりと歩きだす。


 おもむろにジャージのポケットに入れた手が小さな塊に触れた。それは新星が私のプレゼントの一部を「味わって食えよ」と分けてくれたものだった。


 この不幸に見合う幸福が訪れる可能性に期待するなんて馬鹿げている。さっさと次へ行ってしまえばいい。そう思っていたはずなのに、今になって今朝の決意が揺らいでしまっている現状に戸惑いを隠せなかった。ひどくつまらない味気のない世界が、ほんの少しだけ色を帯びたような感覚――たったそれだけのことを錯覚と否定しきれないのは、きっと〝私〟がそこに幸せを見出してしまったからなのだろう。


 スマホを取りだし、SNSで彼とのチャット画面を開く。そこにはアプリに記憶されていた送信前のメッセージが表示されていた。


 今、私はこのメッセージをどう処理すればいいのか分からなくなってしまっている。これを送信するべきか否か。気づけば私はその画面を見つめたまま立ち尽くしていた。


 もしこの時迷ってさえいなければ、この先の運命は変わっていたのかもしれない。


 突如、私は背後から口元を抑えられた。一瞬の出来事に驚愕すると同時に私は荷物を放り出し、その手をどけようと必死にもがく。しかし、次の瞬間首筋に走った激痛が体中を駆け巡り、体を強制的に引きつらせた。数秒間続いたその刺激は、途切れた後もなお私の体の自由を奪い、私は抵抗を許されぬまま目隠しと猿轡をされ、両手両足を縛られた。手首にチクリとした痛みが走り、それから車の中と思しきところへ放り込まれる。


 急激に薄れていく意識の中で、私は必死に「助けて」と叫んでいた。しかしその声も猿轡によって口元で潰され、ただの呻き声にしかならない。いよいよ車が走行する揺れすらも意識できなくなってきたとき、私が最後に思い浮かべたのは彼のあの屈託のない笑顔だった。


 そして〝私〟は再びを見た。

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