第二話 幼馴染と

 五十沢幽の朝は早い。簡単には開いてくれない襖を時間をかけて音を殺しながら開け、極力距離をとって互いに背を向けるようにして寝ている二人の間を縫い、キッチンの戸棚に近づいていく。そしてあらゆる食品が雑然と詰め込まれた籠の中から食パンを一枚抜き取ってポリ袋につめると、そのまま玄関へと向かった。


 玄関には昨日のうちに用意しておいたカバンとジャージの入った袋が既に置いてあり、ボロボロのスニーカーを履いてからそれを持つと、軋む玄関のドアを静かに開けて私は外の世界に逃げ出した。


 日照時間の長いこの時期は朝四時半という時間帯でもすでに明るくなり始めているので、誰かに見つかることには注意をしなければならない。ジャージでも着ていれば早朝ランニングだと言い張れなくもないが、制服姿のままではどうしたって言い訳が立たなかった。


 最寄りの公園までは徒歩十分ほどの距離があり、私は早足でそこに向かっていた。昨日、家へと向かう足取りはあんなにも重たかったのに、そこから離れるときの足取りはこれでもかというほど軽かった。


 途中、二十四時間営業のコンビニの前を迂回し、寂れた公園の小さなトイレの中に駆け込む。制服を脱ぎ、ジャージに着替え、手洗い場の蛇口で手と顔を洗い、くたびれたハンカチで水滴を拭った。


 制服の入った袋と手持ちカバンは明らかに早朝ランニングと主張するには無理のある荷物だが、制服姿でいるよりはまだジャージの方が目立たないので、とりあえず着替えるようにはしている。最悪誰かに見つかっても「部活の朝練が――」とでも言えばなんとか説得できるのではないかとも考えていた。


 こうまでして私が家で着替えを済ませてこないのには三つの理由がある。


 まず一つ目の理由が、あの家には私が自由に使える個室が無いというものだ。唯一トイレがそれの代わりにならなくもないが、そのトイレは和式で、捻る蛇口もなければ開ける蓋すらなく、ただ悪臭を立ち昇らせる黒い穴を便座が囲っているだけなので、万が一そこに何か落としたらと思うと、とても使えるような場所ではなかった。


 二つ目の理由は、私が出す生活音があの男にとっては騒音と判断されてしまうことだった。唯一私が押し入れから出て音を出すことを許されるのは食事とその前後の短い時間だけで、それ以外では微かな物音でさえあの男の逆鱗に触れる可能性があった。


 三つ目の理由は最も深刻だ。以前、私が押し入れの中で着替えをしていたとき、「うるせえ!」と怒鳴って襖を開けてきたあの男が、一瞬あっけにとられた後、じっとりとなめまわすかのような卑猥な視線を私に向けたのだ。


 あの筆舌に尽くしがたい不快感と吐き気を催すほどの気持ち悪さ。そして、その時私が目の端で捉えたあの男の股間の膨張は、この身に起こり得る最悪の事態を嫌でも想像させた。


 それ以来、男は騒音を口実に襖を開けることが多くなったが、五十沢幽はもう二度とあの男を欲情させる可能性があることは家では絶対にしないと誓っていた。それだけがこれ以上何も奪われないようにするための五十沢幽の必死の抵抗だったのだ。


 この事情を把握したとき、〝私〟はこれまでの中でも飛びぬけて不幸な〝体〟ではないかと思うと同時に、ここまで生き続けてきた五十沢幽の強さに少しばかりの引け目を感じた。というのも、〝私〟はもう既に次の自殺のことを考えてしまっていたのだ。


 〝私〟に起きる転生にはある程度の規則性がある。一つは年齢が一致すること。そしてもうひとつはその〝体〟が不幸であることだ。このうち、後者のルールにはある程度振れ幅というものがあるようで、もう一度死ねば少なくとも今よりはマシな〝体〟になれる可能性はあるだろうと〝私〟は考えていた。


 しばらく歩き、昨日この〝体〟の幼馴染と出会った公園に到着すると、そこに設置されている四阿あずまやに入った。ポリ袋から食パンを取り出し、それをよく噛んで空腹を紛らわせる。食べ終えると、四阿の椅子と机で宿題に取りかかった。


 この五十沢幽という〝体〟の前回の定期試験の成績は学年で七位と上々の出来だった。だがそれは必死に勉強したからでもなければ、この〝体〟の地頭が良いからというわけでもない。ただ、この〝体〟には勉強以外にすることがなかったというだけの話だ。


 〝私〟は勉強が好きな質ではないが、この〝体〟は勉強をすることである種の現実逃避をしているらしく、勉強をしているほうが落ち着くので、少なくともこの〝体〟であるうちは〝私〟が勉強することを選択する機会は増えるだろうと思われた。


 太陽と山稜の間隔が徐々に広がっていき、それにつれて気温も徐々に上がっていく。雀の玲瓏な鳴き声が短く響き、それをカラスの無遠慮でがさつな鳴き声が台無しにした。


 宿題をとっくに終え、惰性で教科書の問題を解いていた私は七時半を回った公園の時計をみて腰を上げる。それからトイレの中で再び制服に着替えると、私はその公園をあとにした。


 家に帰るときほどではないが、学校に行くのも相当に気が重い。二年生になってからは特にその気持ちが一層強くなったようだが、そうなった理由に意識を向けると、この〝体〟は歪な拒否反応を起こした。それは言うなれば、「頭ではわかっているけれど認めたくない」という反応だった。


 学校に近づくにつれてだんだんとすれ違う人影が増えていく。この〝体〟が選ぶ比較的人通りの少ない道でも、どうしたって人との接近は避けられず、信号待ちの交差点では自ら他人と距離を置くように配慮していた。


 学校に入るときも大通りに面した正門からではなく、人通りの少ない裏門からと抜かりはない。敷地内をぐるりと回って正面の昇降口にたどりつくと、そこで上履きに履き替える。まるで当然のことかのようにこの〝体〟が上履きの中に異物が入っていないことを確認しだしたのには流石の〝私〟も辟易とさせられ、また、やるせない思いをした。


 教室に入ると私の席の近くに女子生徒が数人集まっており、私には理解できない単語を交えながら談笑しているのが目に留まる。しかし、それは本来起きてはならないことだった。それを目にした瞬間心臓は嫌な脈動を打ち、私はすかさず踵を返してSHRショートホームルームまでの時間をどこかで潰さなければと急いでそこを離れようとした。


「「あ」」


 振り返った直後、廊下の角から姿を現した女子生徒と鉢合わせになり、その声が重なった。出くわしたその女子生徒はすぐににやりとした卑しい笑みを浮かべると、私の手首を捕まえて教室の中にいる仲間を呼ぶ。


「みなみー! いいもの見つけたからちょっとこっちきてー!」


 彼女の呼びかけに応じ、私の席の近くでたむろしていたみなみと呼ばれる女子生徒と、その取り巻きたちがぞろぞろと教室から出てきて私を取り囲んだ。私は今日の時間割が十分繰り下げになっていることに気づけなかったことを惶惑のなかで激しく後悔する。


「幽ちゃんがこんなに早く来るなんてめっずらしー。そんなに私たちと一緒に遊びたかったのー?」

「ってかコイツいつにも増して臭くなーい? なんか酔って帰ってきた親父みたいな匂いすんだけどー」

「もしかしてお酒飲んでるとかー? 未成年飲酒はだめって知らないのかなー?」

「えー? じゃぁ私たちで躾けてあげないとだめじゃなーい?」


 臭いと思ってるんなら近寄って来ないでよ、と抗議したいのに、〝体〟が言うことを聞かない。この〝体〟が彼女たちに抵抗しないことを学習しきってしまっている。家庭において意図せず育まれてしまったただ耐えるという処世術は、学校では皮肉にもいじめをエスカレートさせる結果に繋がっていた。


 まるで犯人を連行する警察のように、私は取り囲まれたまま廊下を進まされる。行先は女子トイレだ。この〝体〟の記憶がそこで行われるであろうことを想起し、体を小さく震わせている。もはや万事休すかと思われた時、トイレの手前の階段から飛び出す人影があった。


「あっ、幽! おはよう! 今日は早いんだな。って、俺がのんびりしすぎたのか。でもちょうどよかった! ちょっと来てくれ!」


 彼はそう言うがいなや、周りの女子生徒には目もくれず、私の手をとって廊下を走りだした。


「ちょっ! うちらその子に用があるんだけど!」

「悪い! あとにしてくれ! こっちは急ぎなんだ!」


 彼はそう言い残すと、廊下の角を曲がって私と一緒に彼女たちの視界から外れた。彼はそこから走る速度を落としたが、窓際に設けられた自習用の共用スペースに着くまでは一言も交わすことなく、ただ私の手を引いていた。


「ったく、あいつらまだあんなことやってんのかよ。しょうもねぇことしやがって」


 走って乱れた呼吸を整えつつ、彼はそんな悪態をつく。対する私は掴まれていた手首を振りほどき、抗議の声を発した。


「ほっといてよ!」


 この感情は怒りだ。その矛先を向けるべき相手が彼ではないことは理解している。それでも、どうしてもこのジレンマの捌け口が必要だった。


「あんたには関係ないでしょ!」


 声が震える。いつも助けてほしいと思っているはずなのに、いざ助けてもらうと助けてもらわなければいけない弱い自分を突き付けられているようで嫌になる。二年生になり、彼と違うクラスになってから急激にエスカレートしたいじめは、彼に守られていたという事実を否が応にも突き付ける。しかしその事実を、この〝体〟は決して認めたがらなかった。


 プシュッ


 突如小さなスプレー音とともに手に冷たい感覚が走り、私は飛びのいた。見ると、彼が手に霧吹き状の容器を持ってそれを私に向けていた。


「おいおい、動くなって。均等にかけれねーだろ」


 彼の持つスプレーには爽やかな字体で〈消臭剤〉の文字が躍っていた。下には小さく〈洗い立ての香り〉といういまいち掴みどころのない販促文句も添えられている。


「……なんのつもり?」

「なんのつもりも何も、昨日お前が自分のこと『臭い』って言ったんだろ? だったらとりあえずコレで解決だろ」

「そうじゃなくって……」


 話の噛み合わなさに思わず頭に手を当てる。そのあまりの拍子抜け感に私の抱いた理不尽な怒りもため息となってスプレーのように霧散した。


「ただその代わり――と言ってはあれなんですけどね、幽さん。実はそのー……数学の宿題をちょぉーっとばかしお見せいただけないかなぁーと……」


 やにわに態度を変えた彼が、頭をポリポリとやりながら横目で私の方を窺いはじめた。どうやら先程の「急ぎ」という言葉はただの方便ではなかったらしい。今度は呆れでため息が出た。


「私、二時限目が数学だから早く返してよ?」


 カバンから取り出したプリントをぶっきらぼうに差し出すと、彼は大げさに頭を下げながらそれを受け取った。


「ありがとうございます幽様! あ、これもう残り少ないからあげるわ。じゃぁまたあとでな!」

「え? ちょっと――」


 声をかける間もなく、彼は走り去っていった。あとに残された私の手には、ほとんど新品に近いくらい中身が残っている消臭剤が押し付けられていた。




 それから一ヵ月、〝私〟は五十沢幽であり続けた。学校ではいじめられ、家では暴力に怯えるという逃げ場のない生活は、いとも容易く〝私〟を蝕み、再びの決行を決意するには十分すぎる理由を与えていた。


 新しい手段もいくつか考えたが、もはややり方を変えるだけで〝私〟の運命が変わるなどとは到底思えない。それならば、これまでで一番楽だった首吊りで逝けばいいと思った。


 カシュッ


 一月前に貰った消臭剤の容器が掠れた音を出す。極力節約しながら使っていたつもりだが、どんなに努力したところでいつかはなくなってしまうものなので惜しんでも仕方がない。それに、そんな努力も今日で終わりになる。今日は夏休み前の最終登校日だった。


「いかなきゃ」


 まるで時計仕掛けのように、私は公園の時計が刻む時間に従っていつもの四阿から出る。そぞろに懐旧の念を感じて四阿を振り返るが、それがあまり意味のない行為であることを確認すると、私はその公園をあとにした。


 この一ヵ月の間に〝私〟の方にも刷り込まれ始めているお馴染みの通学路を辿る途中、私はこの〝体〟の幼馴染である新星のことを考えていた。彼はこの一ヵ月間、毎日私と帰路を共にし、ことあるごとにおせっかいをやいた。ときにはそういった言動が鬱陶しく感じられることもあったが、不幸なこの〝体〟で生きていくためには彼との時間が必要だったのも確かだった。


 だからこそ、これまで何かとよくしてくれた彼に否定的な意味でのショックを与える可能性があることは若干気がかりでもあった。毎日顔を合わせていた人の突然の失踪が何の感情も喚起しないとは流石の〝私〟にも思えない。それゆえに〝私〟は彼と合う機会が暫く途絶える夏休みに入るこの日を決行日に決めたのだった。


 いつも通りSHRの二分前というギリギリの時間に教室に入る。石本みなみを代表とするいじめ加害者たちも先生の前で堂々といじめをするほど馬鹿ではないので、この方法が有効なのは昔から変わらない。とはいえ、二年生に進級した際のクラス分けで、新星とは違うクラス、石本みなみらとは同じクラス、という最悪の状況に陥ってしまってからはそのギリギリさに拍車がかかったというのも事実だった。


 不幸中の幸いと言うべきだったのは、幕原隆二まくばらりゅうじが同じクラスであることだった。彼は男女ともに認めるイケメンで、勉強も運動もそつなくこなすいわゆる才色兼備のクラスの人気者だ。女子からの人気が高いのは言うまでもないことだが、その気取らない爽やかな性格のために男子からの好感度も高かった。


 そして石本みなみはその幕原隆二にぞっこんだった。彼女はチャンスさえあれば彼にすり寄って猫なで声を発し、傍目には気持ち悪いほどに体をくねらせ、とにかく手練手管を弄して彼に取り入ろうと心を砕いていた。そのため、彼女は彼の前で私をいじめるようなことはしなかったし、私の方もそれを利用してできる限りその機会を摘んでいた。


 数学・物理・倫理と座学が続く今日の日程は、とりあえず教室に居続けさえすれば問題は避けられた。授業の合間の休憩も十分ほどだし、四時限目の終業式は体育館に移動するときから先生の目が光っているので、こちらも心配する必要は無い。


 この学校では伝統として長期休暇前日は午前授業で終わることになっており、部活動も軒並み休みとなっていた。曰く、教育においては飴と鞭が重要で、これは飴にあたるのだそうだ。


 一応この学校にも夏期講習はあるが、それに出るためにはお金がかかるので私には縁がないものだったし、成績に直結するわけでもないので、少なく見積もっても生徒の半数以上は出席しないらしい。そのため、クラス担任である新井先生が「解散」の一言を発した時の教室の爆発ぶりは、小学校のそれとほとんど同レベルだったと言って差し支えないものだった。


 私は帰りにどこへ立ち寄るか相談する生徒たちの合間を縫ってこそこそと廊下へと出る。件の石本みなみは、幕原隆二をカラオケに誘うことに夢中になっており、私には目もくれなかったので、特段障害となるものはなかった。


 しかし、昇降口の人ごみは私にとって十分な障害となった。普段は他の教室へ散っていく文化部や、屋内スポーツに興じるため体育館に向かう運動部が、今日だけは全員同じ時間にここに集っているのだから当然の結果ではある。特段急ぐわけでもない私は人混みがはけるまでの間、いつもの場所で時間を潰すことにした。


 目的の部屋の前で二回ノックをすると、「失礼します」と言いながらそこに入る。まるで病院のような匂いが漂う白が目立つ空間。その奥に、うちわを片手にTシャツ姿でデスクに向かう水野先生がいた。


「あら、五十沢さん。いらっしゃい」


 彼女はTシャツの襟を左手で軽く引っ張り、そこにできた空間へうちわで空気を送り込んでいた。入り口横にかけられた温度計の赤は32までの領域を赫々と塗りつぶしていたので、彼女の行為自体はごく自然ではあるのだが、もし入ってきたのが男子生徒だったらどうするつもりだったのだろうと思ってしまう。


「ちょっと恥ずかしいところ見られちゃったわね」


 彼女は暑さのせいか羞恥のせいか、若干頬を赤らめながらうちわを置いた。


「少しだけいさせてください。人が少なくなったらすぐ帰りますので」

「どうぞどうぞ。むしろ五十沢さんがいてくれた方が助かるわ。エアコンの電源を入れる口実ができるからね」


 節電の一環ということで、生徒がいない間はエアコンの電源を切らなければいけないというぼやきを、私は過去に水野先生から聞かされていた。彼女にとって都合がいいのであれば、少しくらい長居してあげてもいいのかもしれない。今日まで私に避難場所を提供し続けてくれた水野先生への最後のささやかなお礼として。


「はぁー。生き返るぅー」


 デスクと入り口の間に設置されたテーブルに場所を移した水野先生が、その上に備え付けられた空調から出る冷気に感嘆のため息をもらした。


「ほら、五十沢さんもいらっしゃいよ。とっても涼しいわよ」


 手招きに応じて私は彼女の対面の席に座った。よく冷えた空気の対流の中に身を置くと、知らぬ間に火照っていた体表から熱が奪い取られていくのがよくわかる。もしかすると、死んだ後の体というのもこんな感じで冷えていくのかもしれない。私はふとそんな風に考えた。


「五十沢さんは夏休みは何か予定はあるの?」

「え?」


 物理的ではない意味で体が芯から凍る感覚が走った。その質問は私にとってあまりに残酷すぎる。


「友達と遊んだりとか、家族で旅行に行ったりとか、夏休みってそういう気分転換ができるいい機会じゃない? 五十沢さんは成績の方は問題ないみたいだし、息抜きが必要なんじゃないかしら?」


 彼女に全く悪意はない。それはわかっている。けれど、その言葉はどれも凶器のように私に深く突き刺さる。そんな未来は絶対にありえない。たとえ私が思いとどまったとしても、それは変わらない。


「考えて……みます」


 強引に喉から搾り上げた言葉は、震えと掠れで消えてしまいそうだった。


 その時、保健室のドアがコンコンとノックされる音を響かせた。


「しっつれいしまーす。あ、やっぱここにいた」


 宣言通り失礼な態度で入室してきたのは、こともあろうにあの新星だった。


「え……なんであんたがここに来んのよ」

「だって、お前の靴まだ下駄箱に残ってたからさ」

「理由になってないんだけど。っていうか勝手に他人の下駄箱覗かないでよ、変態」

「っせーな。靴なんか見たところで何も減りゃしねーだろ」

「そういうことじゃないでしょ」


 なんでこうも彼とは話の焦点が合わないんだろうか。これ以上は労力の無駄だと悟った私は、少し乱暴に席を立った。


「あら、五十沢さんもう帰っちゃうの?」

「すみません、邪魔が入ったので……ありがとうございました」

「おい、邪魔ってなんだよ」


 エアコンの利用券である私を惜しむ水野先生を背に、私は変態を押しのけて廊下へと出た。途端にむわっとした湿度の高い空気が体を包む。私は水野先生には気の毒なことをしたなと思った。


「ちょっと待てよー。かすかー」


 廊下をいく私の後ろを彼が追いかけてくる。


「夏休み直前まで私に何の用よ」

「今日って何の日だと思う?」

「人類が初めて月面に降り立った日」

「そうじゃなくってさー。ほら、もっと身近なのがあるだろ?」

「夏休み前の最終登校日」

「確かに身近だけど! そういうことでもなくってさぁ……」


 彼は何に対する煩悶か、前かがみになって大袈裟に頭を抱え、うんうん唸っている。そして終いにはがっかりしましたと言わんばかりに脱力して腕を垂れると、猫背でぼやき始めた。


「俺は悲しいよ……。よもや幼馴染にこんな扱いを受けるなてさ」

「だから、一体何の――」


 あまりに迂遠な彼の態度にそろそろ苛立ちを感じ始めていた私は、それについて抗議しようと思った矢先、この〝体〟の記憶のうちにその答えを見出して「あ」と声を漏らした。


「そういえば、今日って新星の誕生日だったっけ……」


 その私の小さな呟きを聞いた途端、彼は顔をパッと明るくし、元の声音より少しハイトーンな口調でまくしたてた。


「さすが幽! ちゃんと覚えててくれてたか!」

「言っとくけど、プレゼントとかねだられても――」

「んなの要らねーよ。ただ、ちょっと付き合ってほしいことがあるんだけど――」


 彼はそこで少しだけ迷うかのうように言葉を切り、視線を泳がせたが、すぐに私の方に向き直るとはっきりとした口調で言い切った。


「俺の誕生日、一緒に祝ってくれない?」


 私はその言葉が意味するところがよくわからず、その意図を問い質した。


「どうやって?」

「昔と変わんないって。俺ん家で一緒にうまいもん食って、適当に遊んで、それだけだよ」


 彼は自分の言っていることの意味を分かっているのだろうか。小学生ならいざ知らず、高校生の男女間でそういうことを恥ずかしげもなく口にするなんて。


「友達に頼めばいいでしょ」


 彼はクラスではムードメーカー的な立ち位置にいる存在なので、当然ながら友達も多い。彼の誕生日を祝ってくれる人は他にもたくさんいるはずだった。


「それは去年やった」


 私は彼の言葉を半ば無視するように上履きを脱ぎ、それをカバンの中に突っ込むと、外履きを履こうとその場にかがみこむ。これ以上彼と関わってはいけない。私の頭の中はひたすらそれだけを意識していた。しかし――


「だから今年は幽がいい」


 彼のその言葉に、私は目を見開いた。思わず彼の方を振り向くと、そこにはいつもの剽軽で間の抜けた彼ではなく、真剣さを訴える表情の彼がいた。数秒間の沈黙と、それから急に体温が上がっていく感覚。


「イヤ……か?」


 彼が少し寂しげな表情で問い直す。私は堪らなくなって顔をそむけるように視線を外すと、詰まりそうな言葉で答えを返す。


「別に……いい、けど」


 胸が熱い。もう遠い昔に忘れ去ってしまった必要とされるという感覚の突然の再来に体の反応が追いつかない。急激に何かが満たされ、零れそうになる。私はそれを必死に抑えこむので精いっぱいだった。

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