克肖者の肖像

 先を行くのはルルだ。

 その深海を思わせる髪色は、闇に溶け込むように揺らめいて見える。ともすれば彼女自身が幻の存在のようにさえ見えてくる。後に続く三人は、少しだけ肩をすくめてそれを見守っていた。


「何をそんなに怯えているのだ?」とルル。

「やっぱりほら、夜の学校ってどこか不気味よね」とグリナが答えた。

「別に、昼間は人が行き交う廊下じゃないか。恐れることもあるまいに」

「ルルさんって、さっきも思ったけどドライですわね……」


 レダがぽつりと感想を述べた。


「しかしですね――」


 そう言ったのはユタだった。何でも、この学院にはいろいろな不吉なうわさがあると彼女は言う。庭に置かれた石像が夜ごとに動き出すとか、美術室の石膏像が目を輝かせているとか、果ては駅舎にあった巨像がうなり声をあげるとか……。すべては彼女の兄が言い含めたことらしい。


「……全部石像がらみじゃないか」

「そうですか?」

「そうだろうよ」


 意味のないやり取りをしながら玄関に向かう。そこは大きなホールにもなっている。足を下すたびにきしみをあげる階段を下りた先で、グリナが小さく悲鳴を上げた。


「な、なにかいるわ!」


 そう言って指さす先には巨大な人影があった。

 何事、と目を凝らすと、そこにあったのは一枚の大きな絵画だった。


「なんだ、ただの絵じゃないか。驚くほどのものかよ」

「だって……なんだか不気味に見えたんですもの」


 そこにあったのは古びた油彩画だった。

 支持体である木枠には豪華な彫刻が施されている。描かれているのは立派な口髭くちひげを蓄えた初老の男性の上半身だった。黒ずんだ顔料が重苦しい雰囲気を醸し出している。これは聖エクセビウスさまの肖像画ですね、とユタが静かに述べた。


「これが聖エクセビウスなのか。昼間に入寮したときは気づかなかったな」

「あら、ルルさん知らなかったの? 著名な人物なのに。といっても伝説上のお方だけれどね。この絵画だって、もう百年以上も前に描かれたものと聞いているわ。もっとも、ここにあるのはその複製画でしょうけど……。気づかなかったのは、玄関の真上に飾られているからではないかしら。ほら見て、階段を下りてくるときにしか目に入らない位置に固定されているのよ」


 グリナの説明は淡々としたものだった。

 それにしても――とレダ。


「どこか厳かな雰囲気ありますわね……」

「なんといってもこの学院の創設者ですもの。威厳いげんがあって当然よ」

「さすがは克肖者こくしょうしゃですね」


 ユタは感慨深げに絵を眺めている。


「克肖者?」


 ルルが問うた。


「ええ、克肖者。教会の定めにおいて『聖人』に付される称号のことです。意味は確か、『神に似た、人間本来の姿を回復した聖人』だったはず」

「どういうことだ」

「古い神話にあります。かつて神のそので生まれた我ら人間の始祖が、神の叡智を手に入れることができるされる『禁断の果実』を口にしたことが原因で、かれらは楽園を追放されます。ここでいう『食べる』とは『生きる』と同意義です。『叡智を手にすることのできる果実を食べる』というのは、『自分が神になったかのように錯覚し、善悪を知ったつもりになって真実の神を無視するような生き方をする』と神話は語っています。しかし、我らの始祖は、神の言葉ではなく、悪魔のささやきを信じてしまいました。果実を食べるという行為がそれにあたります。生命の源である神と分離する生き方を、自分で選んでしまった人間は、それから死を定められた存在となってしまいました。死は罪の結果であり、神が最初から意図されたことではなく、人間の自由意志によってもたらされた不条理なのです。これこそが陥罪かんざい。そして、その罪によって神の似姿にすがたは曇らされてしまった……」


 ユタは博識だった。


「なるほど、だから聖人を克肖者と呼ぶようになったわけか」

「はい」


 その理屈からすると、三賢者とはやはり人間であって、神そのものではないということになる。意外と謙虚な考えが浸透しているのだな、とルルは思う。てっきり自らを神だと豪語してはばからない連中だとばかり思いこんでいたのだが……。


「しかしだ。そんな謙虚な思想の三賢者さまですら、人間の世界を勝手に作り定めたというわけか」


「勝手ではないわよ」とグリナが反論する。「全ては聖エクセビウスさまの御心が導くままに、私たちが選んでたどり着いた世界よ。最初からそう定められていたわけじゃあないわ」

「……理屈にもなっていないように聞こえるが」

「そうかしら」

「ルル、おそらく彼女は人間が抱える原罪について言っているのだと思います」


 ユタがそっと耳打ちした。

 それでも何のことだか私にはわからんね――ルルにとっては、どれも御伽噺の域を出ない。なんだか都合よく現状を飲み込むための、言ってみれば単なる詭弁にも聞こえてくる。


「それにしてもなんだな、神々の物語ってのはどこの世界も似たようなものが蔓延はびこるんだなぁ」

「どういうこと?」


 いや、言葉のままだよ、とルル。それじゃあまるで貴女は別世界にでもいたみたいな言い方じゃない――グリナはそう言って少し呆れたまなざしを向ける。御伽噺おとぎばなしはどちらだとでも言いたげな視線だった。


(いかんな、どうにも異世界から召喚された身であることから抜け出せない)


 むろん、自分の元居た世界ではどうだったという記憶が残っているわけではない。ただ、「この世界も似たようなものだ」という感覚だけがルルの言動を形作っている。だからこそ、彼女の発言はグリナたちにとっておかしなことと聞こえるに違いなかった。


「でも、ちょっと素敵ですよねぇ」とレダが瞳を輝かせる。

「なにがよ?」

「だって……グリナもそう思いません? 私たちの世界とは別の異世界が存在していて、そこと行き来をできるような存在が現れたとしたら……」


 ああ、そうかとルルは気づく。彼女たちは禁断の術式である「召喚」を知らないのだ。いっそのこと全てさらけ出してやろうかという気にもなるが、それが一利も生まないのは明白なのでやめておく。気がつけば消灯時間が迫っていた。よって、堂々巡りの論議はそこで打ち止めとなった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ルル ~黒の克肖者~ 文明参画 @bunmeisan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ