空き缶の上の小人

みらいつりびと

第1話 空き缶の上の小人

 リンが十四歳のときのことでした。

 友だちと野原で遊んで家に帰ってきたら、お父さんとお母さんが殺し合っていました。


 お母さんは半狂乱になり、浮気とか離婚とか女たらしとか死ねとかわめいて、お父さんを猛烈に罵倒していました。髪の毛は逆立ち、目は血走り、頬には青痣ができていました。そして出刃包丁を持ち、あんたを殺してわたしも死ぬ、と叫びました。

 お父さんの拳は握りしめられていました。また殴ったのでしょう。お母さんの頬の痣はそれでできたにちがいありません。お父さんの乱暴はめずらしいことではなく、リンは何度も両親の大げんかを見て育ってきました。


 今回のけんかはいままでのものとはちがうようでした。いつもは激しい口論の後、お母さんが殴られたり蹴られたりして終わるのです。でもいまお母さんの目は据わっていて、刃物を持っていました。

 リンはやめてーっと叫んだけれど、お母さんは包丁を突き出しました。その包丁はお父さんに奪われ、次の瞬間、お母さんの胸に突き刺さっていました。

 リンはなにがなんだかわからなくなり、お父さんに向かって突進していました。お父さんに殴り倒され、彼女は気を失いました。

 気がついたときには、お父さんは姿を消していて、血まみれの床の上に、苦悶の表情をしたお母さんの亡骸がころがっていました。

 それからしばらくの記憶がリンにはありません。


 リンは人間なんてどうしようもない生き物だと思いました。

 なんで人間なんかいるんだろう。

 両親だけでなく、友だちもけんかをするし、いじめはあるし、世界のあちらこちらで戦争をしているのをリンは知っていました。

 争ってばかりいる醜い人間なんか世界からいなくなってしまえばいいんだ。

 この世は地獄だ。生きている価値もない。


 でも自分が死ぬことはできませんでした。

 怖かったのです。

 死んで無になることを想像したら、無性に怖くなって、震えてしまいました。地獄へ行って永遠に責め苦をつづけられるかもしれないと思ったら、もっと怖ろしくなりました。

 天国へ行けるならいいけれど、善いことなんてあんまりしたことがないから、無理だろうと思いました。花を摘んだり、虫を取ったりして、殺したことがあるし、お父さんとお母さんのことを憎んでいました。

 わたしには天国へ行く資格はないよ。


 彼女は故郷から離れ、知らない街を歩いていました。

 お腹が空いています。

 物乞いの姿を見て、その真似をしました。


 器を持って道に立っていると、たまにお金を入れてくれる人がいました。それでパンを買って食べました。

 一日立っていてもなにももらえないこともありました。川へ行って水を飲み、生きました。

 三日間なにも食べられず、倒れたことがありました。親切な人が介抱してくれて、あたたかいスープを飲ませてくれました。

 そうしてなんとか生き延びました。

 リンは物乞いをしながら、世界を放浪するようになりました。


 旅先が戦場だったことがありました。

 街の建物は壊れ、道ががれきで埋まり、兵士だけでなく、女の人や子どもも死んでいました。

 やっぱりこの世は地獄なんだなと思いました。

 死んだ子どもの手にお菓子が握られていて、リンはそれを取って食べようとしました。口に入れる寸前に、首を振りました。こんなことをしたらだめだ。お菓子を子どもの手に戻しました。

 手のひらを合わせて、天国へ行けたらいいね、と祈りました。

 戦場から脱出するまでに、数え切れないほど死体を見ました。

 戦地から出て、一見平和な土地へ行っても、人間はなにかしら争っていました。

 春夏秋冬いくつもの季節が過ぎ去り、放浪と物乞いの日々に疲れ果てました。


 リンは絶望からの救いを求めました。

 えらい教祖さまがいる修行場があると耳にして、何日も歩いて行きました。

 林の中で大勢の人が座禅していました。教えを乞いたいと告げました。

 若い僧から、女はここでは修行できないと言われて、教祖さまに会うことはできず、あっさりと追い返されました。


 リンは旅をつづけました。

 物乞い以外にも、空腹を満たす手段はありました。

 木の実や魚、貝、虫、カエル、もぐらなんかを食べればいいのです。

 生き物を殺すのは抵抗があったけれど、生き物は生き物を食べて生きるものだとリンにもわかっていました。

 生き物はみんな罪深い。

 殺さないと生きていけない。

 殺し合いはどこにでもあります。虫、鳥、獣たちも殺し合っています。

 でも人間が一番罪深いとリンは思っていました。食べるためではなく、憎しみで殺し合う。愛し合っていたはずの夫婦が殺し合う。意味のわからない戦争で殺し合う。どうしようもないほど罪深いです。

 

 どこかにわたしを救ってくれる教えはないだろうか、と一縷の望みを抱いていました。

 旅の途中でリンに小銭や食べ物を恵んでくれる人がいます。病気になったら、助けてくれる人がいます。やさしい声をかけてくれる人がいます。人間には本当に救いがないのか、わからなくなることがありました。

 リンは自分を救ってくれる教えを求めていました。


 次に行った修行場は大きな社。

 山の中に本堂があり、金色の堂があり、宝物殿があり、千年生きているという大樹があり、墓地がありました。 

 そこは苦しんでいる人を広く受け入れてくれるところでした。リンは追い払われることなく、えらいお坊さまに会うことができました。


 彼女はお母さんがお父さんに殺された体験を話しました。

 人間には業がある。前世の悪業がお父さんに罪を犯させ、前世の業がお母さんを死なせたのだ、とお坊さまは言いました。

 あなたにも業がある。

 ここで修行して悪業を清めなさい、と言われました。

 リンは修行を許されて喜びました。


 剃髪しました。

 毎日お堂の床を拭き、境内を掃き清めました。

 経典を読みました。山中を走りました。火の上を歩く荒行もしました。

 でも苦しみは消えません。死の恐怖も消えません。雑念が消えることもありませんでした。

 思い出がリンを苦しめました。お母さんの苦悶の表情を夢で何度も見ました。修行をしたら前世の悪業は消えるのだろうかという疑問が、絶えず心に浮かびました。

 輪廻転生ということばを知りました。前世の業が現世で罪を犯させ、来世でもまた悪行をしてしまうのではないかと思って、怖くなるばかりでした。

 お坊さまにそのことを訴えても、あなたはまだ修行が足りないと言われるばかりでした。

 ここではない、と思うようになりました。

 リンはその社から離れました。


 その次の修行場では、教祖さまから人間は生まれつき悪の心を宿している罪深い生き物なのだと告げられました。それは修行で消せるものではない。

 そのとおりだと思いました。

 ここで生活して、瞬間瞬間に心を集中して、できるだけ穏やかになりなさいと言われました。リンはやってみることにしました。

 木造の小屋がいくつかあって、数十人の人々が共同生活を送っていました。そこに住むことを許されました。

 新しい居場所ができるのは、うれしいことでした。


 そこではみんなが農耕をし、食べ物を平等に分け合って生きていました。

 肉は一切口にしないところでした。

 聖なる大岩から清水が湧き出していて、夏には冷たくて美味しく、冬にはあたたくて美味しいのです。

 リンは農耕に打ち込み、心を穏やかにしようとしました。

 心やさしく、あたたかい仲間ができました。

 いっとき、救われたように思えました。

 労働をした後で見上げる空は清々しく、教祖さま以外みんなが平等で、悩みと苦しみが減っていきました。ここで生き、死に、土に返りたいと思うようにすらなりました。

 でも教祖さまが亡くなられたとき、後継者が決まっていなくて、教団内部での醜い争いが起きました。尊敬していた人たちの罵り合いを見てしまい、リンに絶望がよみがえりました。

 期待が大きかった分、失望も大きかったのです。

 ここにもいられない。

 彼女はまたさすらいの旅に出ました。


 旅は何年もつづきました。

 飢え死にするたくさんの人を見ました。火炎に焼かれ、皮膚がずる剥けた人を見ました。銃弾で撃たれ、のたうち回りながら死ぬ人を見ました。

 リン自身も何度か死にかけました。飢え、渇き、病、怪我。旅をしていると、いろいろな不運に見舞われます。

 どういう運命なのか、助けてくれる人がいたり、自身の生命力が強かったりして、死に至ることはなく、生き永らえました。


 生きている限り、救いを求めました。さらに何人かの師に教えを乞い、真剣に修行に打ち込んでみました。

 だめでした。

 清浄な修行場では静謐な暮らしが得られることもありましたが、世界から苦しみがなくなることはありません。いつも争いがありました。そこから目をそむけることはできません。

 人間には救いなんてないんだという思いは、修行すればするほど強くなるばかりでした。


 旅は何十年とつづきました。

 ある日、大きな川の広々とした河原で、リンは空き缶の上で寝ころんでいる小さな人を見つけました。

 小さな人はすこやかな笑みを浮かべ、地面にころがった空き缶の上で苦もなく寝ていました。

 リンはこの小さな人になぜだか惹かれました。

 今まで会っただれよりもえらい人のように思えました。


 リンは小さな人が起きるのを待ちました。

 その人は空き缶の上で目を覚ましました。樹の上に棲む小さな草食動物のような目で見つめられました。缶は微動だにしません。

 小さな人は姿勢を変え、空き缶の上にちょこんと座り、こんにちは、と鈴のように高い澄んだ声で言いました。

 この人に悩みを聞いてもらいたい、という衝動にかられました。


 リンはあふれるようにしゃべりました。

 お母さんがお父さんに刺されて死んだこと、旅をして世界中で殺し合いが起きているのを見たこと、苦しみばかり多く、自分がなぜ生きているのかわからないこと。

 小さな人は答えてくれました。

 ぼくにはあなたを救うことはできない。ぼくもつらいことがあって、悩みを忘れるために空き缶の上で寝ているんだ。隣にいてあげることくらいならできるよ。


 リンは小さな人の隣にドラム缶をごろごろと運んできて、その上で寝てみました。

 すぐにころがり落ちてしまいました。

 ぼくもよく落ちたものだよ。空き缶の上でうまく寝られるようになるのに十年かかった、と小さな人は言いました。


 リンはドラム缶の上で寝るという奇妙な修行を始めました。

 すぐに落ちてしまい、なかなか眠れません。

 ドラム缶に乗って眠ろうとしますが、また落下。

 疲れて、いつのまにか寝入ってしまいます。

 朝起きると、いつも地面にいるということばかりでした。

 近くの村の人たちが、小さな人とリンに芋を分けてくれたので、生きていくことができました。

 別に死んだってかまわないんだけど、とリンは思っていました。長く生きて、死の恐怖は自然と薄れていました。若い頃のようにむやみに死におびえることはなくなっています。

 最後にドラム缶の修行だけはやってみよう。

 この上で眠れるようになるまで、生きていたい。


 ドラム缶の上での修行をつづけました。

 その隣では小さな人が空き缶の上ですやすやと眠っています。

 三年が経ち、一か月に一度は、朝起きたときに地面に落ちずにドラム缶の上にいるようになりました。

 六年が経ち、それは一週間に一度になりました。

 九年が経ち、二日に一度は、ドラム缶の上で気持ちよく目覚めるようになりました。

 その頃になると、リンの心から苦悩はいつのまにか消え去っていて、毎日の修行に無心で集中できるようになっていました。

 小さな人は空き缶の上でにこにこと笑っていました。

 

 十年め、ついに毎日連続して、ドラム缶の上で睡眠を取ることができるようになりました。

 師匠、やりました、とリンは言いました。

 しかしリンの隣には小さな人はいなくて、錆びた空き缶が河原に落ちているばかりでした。

 そのかわりに、大勢の人がリンの周りで、ドラム缶で寝る修行をしていました。

 目の下に隈のある苦しげな表情をした少年がリンの前にやってきて、人間に生きる価値はあるのでしょうか、ぼくは生きていていいのでしょうか、教祖さま、と言いました。


 わたしは教祖なんかじゃない、とリンは答えました。

 わたしにも人間に生きる価値があるかどうかはわからない。

 でもきみの隣にいることはできるよ。

 少年はリンの隣に来て、ドラム缶の上で眠る修行を始めました。

 

 リンは今もドラム缶の上で寝ています。

 彼女の顔にはいつも穏やかな笑みが浮かんでいて、それはだれかの心を癒しているのでした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空き缶の上の小人 みらいつりびと @miraituribito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ