カズラ


 人類の音、文明の声。

 街灯の闇は、夜の光に惑う。外套膜がいとうまくの内側を貪るように、害虫は巣くう。腐りきった内臓を彩り、寄る雑魚ざこひれを掴むように、ただ一筋の糸を千切らないように。

 我々の大切な物は、あの赤い空の下にある。天野あまのは口を開いた。

 「頭足類だ。スクイッドは頭足類。」

なぎ那美なみは声を揃える。

 「いや、烏賊は魚類だ。泳ぐじゃないか。」

天野は呆れた表情で酒をあおる。

 「いいか、十腕形目なんだよ。網に十本足がかかるのを見たことがあるか。蛸壺にも十本もげそは入ってないだろ。」

凪は不満そうに天野を見つめている。那美が真剣に天野の話を聞く傍ら、うたは気だるげに申し立てる。

 「そろそろシフトなんで、そこ、代わって。」

重い腰をあげ、天野が退いた席に座る詠。どうでもいい話を、と捨て台詞を吐き、上に昇ってゆく。八月に空く寒空を気にもせず、声は響く。今日も今日とて、月が眩い。


 ある日少年は憧れた。合成音声に歌われる少年少女に。あの日少年は疑わなかった。己が未来の輝きを。

 彼らが年下になり、少年は青年になる。憧れは憧れのまま、もう二度と手の届かない夏へ消えた。しかし、青年の生活は順風満帆そのものだった。人にも、金にも、学にも特別困る事はない。ただ、失った過去への執着は、持たざる者の嫉妬、喉が開くほどの渇望、いわれもない虚無感を生む。浸食され、穴だらけの岸壁を彼は露わにできないでいる。

 憔悴した青年は信仰を始めた。汚れたままの部屋で立ち尽くし、星の光に脳を惑わせる日々。嫌が応にも目に映る自分が、何故か美しく見える。彼は、自身の中に神の存在を見出し、それを盲信した。安酒を神酒に、布団を神棚に見立て、神の声を聞き、祈りを捧げる。

昇る月を見上げ、太陽の存在を信じ、遠く母に祈った。蒸す夏の風に煽られ、長い時間を過ごした。薄れていく現実感を体現するのは、夜に咲く虹、薄っぺらい同情、理解を伴わない言葉。

 「神を手にかけんとする面持ちに、堕天の烙印を、大義を持った鉄槌を。」

部屋の隅のガラス片。

 「汝、人を想うあまり、我、自らの死を望む。」

今この瞬間、私に私以外を見出す。

 「小さくなった憧れにすがり、幼心を諦めきれないでいるだろう。小さな画面に写る、小さな綻びを繕う日々に、天晴と言えれば良いのだが。」

最後に意思を示したのは何時だろうか。

 「神に祈り、祈りを呪う軋轢に。どうかひとつ、静かに揺らぐメロディを。」

詩的な表現に身を酔わせ、世を受け入れ全能感に浸る。美しい歌声が、私に変革を告げる。


 十一月も終い、暖かみが消え去った頃。人通りの少ない路地で、フードを被った青年は立ち竦んでいる。イヤホンから打ち響くビート。たかだか三分間の夏が、白む吐息と交差する。僕の夏は終わっていない。扉を開いて帰路が終わり、血走った赤い目を閉じた。

 「魔法も奇跡も有るんだよ。」

ブルーライトの向こう側で、少女はすべてをかなぐり捨てた。小さなマンションの三階、昇る月を見上げる。頬を刺す冬の風に震え、痛いほど打つ鼓動に逸る心。焦燥する虚無感を体現するのは、意味のない祈り、心ない感謝、理解を伴わない言葉。

 「神を手にかけんとする面持ちに、堕天の烙印を、大義を持った鉄槌を。」

昨日割ったコップがそのままだ。

 「汝、人を想うあまり、我、自らの死を望む。」

空が白む頃には、名前も知らないアニメが放送される。

 「小さくなった憧れにすがり、幼心を諦めきれないでいるだろう。小さな画面に写る、小さな綻びを繕う日々に、天晴と言えれば良いのだが。」

最後に人と話したのは何時だろうか。

 「神に祈り、祈りを呪う軋轢に。どうかひとつ、静かに揺らぐメロディを。」

詩的な表現に身を酔わせ、世を見下して悦に浸る。乾いたシンクに暗い部屋、世界を変える歌声はもう、聞こえなかった。


 詠は怒っている。凪が、玄関前にいた男を中に入れたことに対して。男は怯えているのか、顔を青くし、目をつぶってぼそぼそと何か呟いている。居間から那美が顔を出して言った。

 「随分と慕ってくれているな、あたしも誇らしい。」

楽観的な那美に呆れ、眉間にしわを寄せた詠は訝しげに尋ねた。

 「何をしにここへ来た。目的はなんだ。」

男は黙り、凪が出したお茶にも手をつけない。不自然な態度が詠の不機嫌を加速させた。所々で鳴る鈴の音が、あがる焔に消えていく。凪と那美の呼びかけにも、男は答えない。どこからか向けられる暖かい眼差し。

 「珍しい、お客さんかな。」

役目を終え帰った天野が、惚けた様子で男の隣に座る。入れ替わりに詠が席を立ち、男に舌打ちをして部屋を出た。天野は、すっかり青ざめた男に語りかける。

 「君は、恐いんだね。己が内に見出だした神に全てを擦り付け、赦しを乞うた。そして、そこに罪悪感を感じた。」

男は頭を抱え、震えだした。

 「だから、行為の代償を、罰を、そして神を恐れている。」

凪と那美の顔から疑問と心配が消え、安堵の表情に変わる。

 「でも、恐れる必要はないよ。君とわれわれにはたった今、縁ができた。君を歓迎する、迎えに行こう。」

涙を流し、頷く男。

 「明日、日没の瞬間にこう唱えなさい…」

視界がぐらつき、頭痛がする。気づけば床はなく、ただ空の世界。凪と那美に見送られ、青年の身は投げ出された。


 浮遊感が青年の目を覚ました。肩を震い、息を吸うたびに幸福を感じる。汗だくのまま、靴も履かずに外へ飛び出し、赤く光る夕陽を全身に浴びる。全能感に満ち、腹の奥底から声が溢れ止まない。奇声をあげる不審者を皆、遠目に避けて歩く。ただ一人、冷たい写線を釘付けにする青年。記憶を辿り、日没を待つ。

 奇声をあげる奇妙な男を囲む人だかり、その中に彼女はいた。多くは語るまい、彼女は運命と理不尽の境界に摩耗し、世に捨てられた。ナイフを手に神を否定し、血走った目を泳がせる人。陽が落ち、夜が訪れようとしている。奇妙な男は急に黙り、何か唱え始めた。

 「我、神の祝福を欲す。尊き我が人の子が、陽の光に照らされるように。君もあなたも一つとなりて、照らされる道を。」

何故だろうか。その言葉は、きれいに彼女の逆鱗をなぞった。自分でも信じられない怒りがこみ上げ、男を襲う。取り出したナイフは吸い込まれるように、体はまるで当然のように、男の心臓を突き刺した。悲鳴とフラッシュに覆われるなか、彼女は何度も突き刺した。我を忘れ、命を絶つことに尽力した。しかし、男の体が抵抗をやめ、ふと我に帰る女。有難い現実を彼女は受け入れられない。野次馬に抑えられながら彼女が見たものは、死に絶えた男の恍惚の表情、手を招く振袖の女。


 詠はため息をついた。天野の隣には、例の男が居る。

 「照も趣味が悪いよ。」

 「そんなこと言うなよ。悪いもんじゃない。」

天野は言うと、男の手を取り、かじり始めた。

 「じきに産まれるよ。彼はいい子だ。」

テレビでは凄惨な事件が報道されている。

 太陽が隠れ、冬が来る。冷たい風が今日も吹く。祈りも赦しも今だけはいらない。

産声をあげるまで、ただ胚に眠る。

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パセリ はるよ @youllbutyoull

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