Track:8 - 愚かなり我が心

 

 

 彼女がバーに帰ってきた。何があったか、Qはもう聞いている。

 

「……ただいま」

「おう……Qは今、書き物中だぜ」

 

 バーのベルが鳴ってから彼女が挨拶するまでラグがあった。

 外の静けさに当てられたからではない。彼女は自分の失敗に負い目を感じている。

 

 彼女はずるずると足を引きりながら、雨漏りバケツを避けて奥へ。

 そして、Qの向かい側のソファーにダイブした。

 

「あっ、おい。揺れるだろ」

「…………疲れてんの」

 

 シュガーはクッションに顔を埋める。泥のように横になっている彼女を見て、Qはペンを置いた。

 

「はぁ……こっちこそ、無茶を言ってすまなかった」

「え、何? どうしたの?」

 

 彼女はQの言葉を聞くやいなや、きょとんとした表情で顔を上げた。

 たったの一言だけでシュガーはQの異変を見抜いた。さすが長い時間を共にした間柄だ、と彼は感心する。

 

 さらに、遠くからマスターがバーを後にする音も聞こえた。これほど頼れる大人に出会えて本当に幸運だった、と我ながら思う。

 

 

 ――お膳立てはしてもらった。あとはQが彼女に真実を伝えるだけだ。

 

 

「シュガー、話がある。聞いてくれるか?」

 

「ずっと聞いてるよ」

 

「ありがとう」

 

 Qは深く息を吸い込んだ。

 

 バーのジュークボックが流すのは静かなクール・ジャズ。ピアノの音、一音一音が水の波紋のように、心のなかに溶け込む。広がっていく。

 Qが好きな音楽はもっと軽快で快活なものだ。しかし、今はそんな気分になれなかった。

 

 採光窓から柔らかい光がテーブルの上に落ちてきて、その反射が2人の顔を下から照らし上げる。

 シュガーの不安そうな上目遣いが、Qの張り詰めたような顔を映していた。

 

 

 彼は唇を湿らして、言葉を発した。まだ意味を持たない問いかけだ。

 

「お前と初めて会った夜のこと、覚えてるか?」

「え? ん……そりゃ覚えてるよ。覚えてる……」

 

 シュガーは彼女の義足に手を当てた。かすかに震えているのだろう、細かく金属の触れ合う音が聞こえる。

 それに負けじとQも動悸がひどくなっていく。

 

「あのとき、俺は怪我もしていないのに、服に血を付けていた」

「そうだった、かも……」

 

「ありゃ鼻血じゃない。俺の血でもなかった……いいか、シュガー。取り乱さずに聞いてほしい」

 

 シュガーは首を横に振っていた。今にも泣き出しそうな顔で、うるんだ瞳で、Qに訴えかける。聞きたくない、と。

 

 

 しかし、ここで止まるワケにはいかない。Qもまた、首を横に振る。

 

「俺は……リオンの父親を殺して、それで逃げ出したんだ。それが、あの日のことだ」

 

 

 フッと言葉が途切れた。どう続けるか、何を言うのか分からなくなった。頭が真っ白になったのだ。

 

 

 ――シュガーに言葉をかけてやらなければ。だからこそ、自分がリオンの手で殺されなくては。止まってしまったリオンの人生が再び前に進めるように、復讐されなくてはいけない、と。

 

 

 しかし、そう考えたときには遅かった。Qがイメージを言葉にして話すよりも速く、シュガーが口を開く。

 

「そ……そう、なんだ…………」

 

 絞り出したかのような細い声だった。彼女は指を組んで、Qの胸元あたりから視線を外さない。

 固まってしまった彼女は、一語一語を手繰り寄せるように続ける。

 

 

「でも、ウチは……Qのこと、信じてる、よ……」

 

 

 Qは下唇を噛む。

 彼はそうではなかったのだ。自分で自分のことが信じられなかった。突き放してくれたほうが、気持ちは楽だったかもしれない。

 

 彼女はさらに重りを乗せた。

 Qの心の中で、天秤がぐらつき始める。彼が下した決断が覆ろうとしている。

 

 

「――うん、さっそくリオンを助けに行こ! 私も一緒に話すから」

 

 勢いよく立ち上がったシュガーをQが引き止める。

 

「いや。リオンはきっと真実を知ることになる……俺の口からでなく、だ」

 

「え、どういうこと?」

「リオンを連れていったのは、俺の古い仲間だ。あいつは俺がリオンの親父さんを殺したことを知っている」

 

 カレン。彼女さえいなければ、この街で生きる術をリオンに教えられる時間もあっただろう。

 彼女が狙ってこなければ、最初からリオンの手で殺されてやったのに。現実はにっちもさっちもいかない。

 

「え、え、え! それじゃぁ、もしかしてQが生きてるってバレちゃったの!?」

「公には知られてはいないらしい。あいつにとって価値のある情報のままだ。俺が生きていることも、リオンに感じている後ろ暗さも、全部を利用して俺を口説き落とそうとした」

 

 ――Qの予想はこうだ。カレンはリオンに真実を告げる。その上でリオンを使い捨てにし、“イービルアイ”という面影を求めて俺に言い寄る。恩着せがましく現れるはず。

 

「じ、じゃあ、なおさらリオンを助けに行かなくちゃ!」

 

 シュガーはテーブルに手をついて意気込む。反対に、Qはさらに沈み込む。

 

「いや、向こうから来るのを待つのが賢明だ。間違いない」

「――ッ! でもそれじゃリオンを説得できないよ! ダメじゃん、そんなのっ!」

 

 

 仮にリオンを助け出せたとして、全員が無事なままではいられない。無闇に抵抗をするくらいならば、今はまだカレンの目論見に従って動いたほうが安全だとQは考えた。

 しかし、シュガーはそうは考えない。一刻も早くリオンを連れ戻さなければ、リオンがQを恨みかねない。その一心だった。

 

 

「それでも……いい」

 

 

 シュガーが小さく驚く。Qは目を伏せたままため息を吐き出した。

 その様子を見た彼女は、声を震わせながらQに聞く。

 

 

「まさか、Q…………死ぬつもりじゃないよね」

 

「リオンが前を向くことができるなら、それでもいい」

 

 

 覚悟。しかし、シュガーにとってそんなことは問題ですらなかった。

 彼女の平手打ちがQに飛んでいく。

 

 Qとて、彼女の気持ちを慮れないわけではない。6年の付き合いだ。当然の結果――こうなることは分かりきっていた。

 

 

「シュガー。俺が死んだら、リオンから金を受け取れ。しばらくは食い繋いでいける」

 

「バカ!! バカ!! バカ!! 何でッ、何でそんなこと……!?」

 

 彼女の涙がQの膝の上に落ちた。彼女はQの肩を掴んで、何度も揺らす。

 Qは耐えた。動じない。動じてはいけない。情に動かされてしまえば、リオンを助けられない。彼が“絶望”抜け出せなくなる。Qは耐えた。

 

「大丈夫だ。シュガーは俺と違って友達が多い。みんな頼れる人たちだ。俺が保証する。マスターだって――」

 

 シュガーのキャスケット帽が口を塞いだ。胸に彼女の顔が押し当てられる。

 泣き声が心臓に響く。

 

 Qは彼女を抱き返そうとした。

 

 ――ダメだ。

 

 Qは耐えた。シュガーはもう、1人で生きていかなければならない。自分がいては、ダメだ。

 彼はシュガーを引き離そうと、彼女の肩に手を当てた。

 

 

「お願い。私を1人にしないで……お願い……お願いだから」

 

 

 彼女の身体は震えている。『私』、彼女は自分のことをそう言った。

 

 

 かつて自分が彼女にプレゼントした帽子。その日は一日中喜んでくれた。バーの中をはしゃぎ回るシュガーの姿が眼裏に映る。

 

 あの頃は2人の他にも多くの客がいた。みんな心に“絶望”を抱えた者たちだった。

 中でも退院したばかりのQが一番暗かった。溺れるように酒を飲み、バーの蓄えを全て飲み干し、溺れ死ぬつもりだった。

 

 シュガーがいなければ、どのみち死んでいた。

 

 彼女はQに生きる意味をくれた。

 

 何でも屋をやろう、とバーの看板娘は言い出し、バーの客が何でも屋の依頼主となった。

 1人ひとり、バーに訪れる客は減った。みんな“絶望”を乗り越えられた。あのフランクですら仕事にありつけた。

 

 シュガーがいたからこそ、今こうして生きていられる。

 

 

「…………へっ」

 

 やはり自分は、マスターのようなハードボイルドにはなれない。そう痛感した。

 

 

 

 ――だが、Qも乗り越えなければならない。過去を、“絶望”を。

 

 

 

「悪いなシュガー。この始末書を届けに行かなきゃならないんだ」

 

 

 Qは彼女をどけて立ち上がる。しかし、袖を掴まれた。彼女のしゃくり上げる音がQの後ろ髪を引っ張る。

 

 

「離せよ……」

 

 

 涙は流さない。流れないのだ。“拡張体ローデッド”の義眼は涙を必要としない。

 6年前に切り落とされたのだ。それ以来、泣くことはなかった。

 

 それでもQは気丈に見せる。

 

 

「やだ。私がQを守るから……だから行かないで」

 

「俺じゃないとあいつは助けられない。俺が殺した。だから俺にしかできない。リオンを、助けたいんだ」

 

 彼女の手が離れる。

 

 

 ただ1人残されたシュガー。みんな、出ていった。

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