第9話

 ――【富士河クリニック】。


 そう刻まれた看板を掲げた建物の前へと到着した。意外にも商店街から歩いて五分ほどだったのですぐだった。


 こじんまりとした建物ではあるものの、千咲曰く専門医ではなく、外科も内科も診ることができる母親ということなので、ここら周辺の住民たちのほとんどは気軽に足を運べるとして人気らしい。


 大きい病院だと、手続きが複雑で時間がかかったり、外科や内科だけでなく他にもいろいろ細分化されていて混乱したりと、特にお年寄りには素早く対応できないシステムになっている。


 しかしここでは腕の良い医者がたった一人ではあるが、丁寧に素早く対応してくれるので助かっているとのこと。

 敷地内にはクリニックの他に、富士河家の住居も隣り合わせに建てられている。そのまま住居の方ではなく、クリニックの方へと入っていく。


 すると受付と待合室があり、二人ほどソファに腰を下ろしていた。そこで受付から女性の声がすると、一人が席を立って受付の方へ行くと、そこで薬を受け取って出ていく。


 そしてもう一人の名前が呼ばれて、診察室がある扉の奥へと入って行った。太老は、受付は自分がやっておくからと千咲に言われてソファに座る。

 千咲はそのまま音々呼と一緒に診察室へと入っていく。手持無沙汰なので、周りを観察する。そこには医療に関するポスターなどが貼られていて、中には迷子猫のポスターまであった。


 隅に置かれている空気清浄機を一瞥してから壁にかけられた時計を見やる。


(もう五時かぁ。帰る時に買い出しに行くかな)


 ただあの商店街には、今は近づかない方が賢明かもしれない。あの妖怪猫を撃退したとはいっても、あれで成仏したわけではない。超常的な存在が、看板に下敷きになった程度で終わるとは思えない。


 できたのは一時的な足止め。だからまだあそこをウロウロしている可能性が高い。見つかれば問答無用で襲い掛かってくるかもしれないので、しばらく足を伸ばすのは控えた方が良いだろう。


(はぁ……不運じゃなくなっても、ああいうのとはこれからも付き合っていかないといけないんだろうなぁ)


 怖いという感情は、随分前に薄れてしまったものの、危険なのは変わりない。《確率変動》という対抗できる唯一の手段があるとはいっても、今日だってギリギリだったのは否めない。


(……ああいうのに殺されないためにも、この力をもっと使いこなせるようにならないとな)


 太老が決意とともに開いた右手をジッと見つめていると、診察室が開いて受診者が一人出てきて、そのあとすぐに千咲が現れた。


「お待たせしました、どうぞ三森さん」


 そう言われたので、少し恐縮しながら室内へと足を踏み入れる。

 するとすぐに椅子に腰かけている一人の人物と目が合った。白衣を着用したスタイルの良い女性。間違いなくこの人が千咲や音々呼の母親であるクリニックの院長だろう。


 その近くにあるベッドに音々呼がチョコンと座っていて、太老の姿を見て嬉しそうに手を振ってきた。

 傍に立っていた千咲に座ってくださいと言われて、差し出された椅子に腰かける。


「……ふむ、君が音々呼を助けてくれた子だね?」

「え?」

「ああ、すまない。いきなりだったね。まずは自己紹介からしようか。私はこの子たちの母親であり、この【富士河クリニック】の院長――富士河舞香だ」

「えと……三森太老です」


 美女は美女だが、何というか妙な迫力……やり手女社長的な雰囲気があって、思わず萎縮してしまう。


「ふふ、そう緊張しなくてもいいよ。こちらは礼を言う立場なのだからね」

「は、はあ……」


 そう言われても、美女美少女に囲まれているこの状況で緊張しない男子はいないだろう。とりわけ女性に免疫がない男なら尚更に。


「では話を戻すが、ウチの子を助けて頂きありがとうございました」 


 いきなり立ち上がると、今度は綺麗に一礼をしてくるのだから太老の戸惑いもまた膨らむ。


「あ、いいや! 気になさらないでください! 助けたのもたまたまで……だから、本当に……怪我の手当てだって娘さんにしてもらいましたから。だから頭を上げてください」


 そう言うと、頭を上げた舞香がちらりと太老の包帯が巻かれた腕を見る。


「……分かった。ではさっそくその腕を見させてもらおうか」


 仕事人の顔に戻ったかと思えば、手際よく包帯を取って患部を診察し始める。その間に、痛みやら痺れがないか、他に痛いところがないかなどの問診も受けた。

 そうして五分とかからずに診察と治療が終わる。塗ってもらった薬が効果覿面なのか、今はもうまったく痛みを感じない。


「縫うほどの傷ではなかったし、破傷風にもなっていなかった。野良猫が相手だと聞いたから心配はしていたが、傷口を診たがそれほど深くはないし、すぐに治ると思う」


 さすがは腕利きと言われる院長だ。パッと診ただけで分かるとは脱帽ものである。

 ただ本当に怖い病気を移されていなかったのかは分からない。ただ太老はその可能性をここに来る前に消しておいただけだから。そう、自分の能力を使ってだ。


(何せ相手は妖怪だったしな。呪いとかあったら怖いし、そういったものは絶対にないことにしておいたんだよね)


 自分が受けた傷が、命に別状がないただの傷である確率を百パーセントにしたのだ。


 実際悪霊や妖怪などといった理解不能な存在から受けた傷だ。何かしらのデバフみたいなものがあってもおかしくはない。ただそれは絶対ではない。だから太老は自分にとって最善の状況を現象化したのである。


(まあさすがに無傷にすることなんてできないけどな)


 血も出ているし痛みも感じてしまっているので、己の中で無傷は絶対にありえないと感じているから、傷自体をなかったことにはできないのだ。



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