40、兄・弟と呼ばれる日

「姉さん、大河たいが、そこにいるんでしょ?」


 扉の外から声がして、ゆきがむっとした表情で振り返る。俺は自ら視線を外さずに済んだことに内心ほっとしつつ、彼女より先に口を開く。


心之介しんのすけ、ちょうど下に行こうと思っていたんだ。お前に話がある」


 ゆきの目線が今度はこちらへ向く。それに構わず、俺は彼女を追いこして部屋の扉を開けた。


「大河、姉さんに変なことしていないよね?」

「当たり前だろ。ほら、下に行くぞ」


 そのまま階段のほうへと向かう俺の後ろを、心之介とゆきがついてくる。他人の家なのに俺が先頭を歩くのも変な気がしたが、廊下でごにょごにょ話すよりいいだろう。何より俺が動かなければ、二人はその場にとどまって会話を続けるような気がしていた。


 リビングに来ると、いつぞやと同じように俺の隣にゆきが座り、俺の正面に心之介が腰かけた。


ほたるさんは?」

「蛍兄さんは今日はまだ大学だよ。でも、僕が代わりに話を聞いて伝えておくから安心して」


 正直なところ、あまり安心できないが蛍さんの何でも見透かしそうな目に見つめられて話し続けるのも緊張するので少しほっとしたのも事実だ。


「先に言っておくけど、僕は空気を読んだりなんかしないから。まだ大河を、兄さんだとは認めない」

しんちゃん! 気が早いから」


 焦ったようにとりなすゆきの顔はわずかに赤い。俺自身も、彼女が放った言葉に動揺していた。気が早いというのは、いずれは心之介に俺のことを兄と呼ばせる気なのか。それはつまり……考えているうちに俺も顔がほてってきそうだったので、いったん思考を中断し心之介の言葉へ意識を戻す。


「いや、心之介はかなり空気が読めるだろう。今日も、お前のアシストが無かったら七……ゆきと言葉をかわすことはできなかった」

「それは大河がふがいなさすぎて、姉さんがかわいそうだったからだよ。これからも姉さんに嫌な思いをさせたら、許さないから」

「心ちゃん……ごめん大河。生意気な弟で」

「いやいいよ。心之介がシスコンなのは今に始まったことじゃない」


 俺の返しに心之介は何か言いたげだったが、結局口をつぐんだ。シスコンだという自覚はあるようだ。思えば蛍さんもタイプは違えど、シスコンの部類だろう。まあ、男きょうだいの中に女子がひとりだったら、そういうことになるのかもしれない。


「心之介。さっき部屋の外から声をかけてきたが。俺たちの話は、どこまで聞いていたんだ?」


 とりあえず、今聞くべきことを確認する。話はそれからだ。心之介は俺をジト目で見ていたが、やや間をおいてから息を吸う。


「さすがに姉さんの部屋の前で盗み聞きをするほど失礼じゃないよ。大河が姉さんをたらしこんでいるのがわかったくらいで」

「そんなつもりはなかったが……というかしっかり聞いてるじゃないか」

「僕の部屋、姉さんの隣だから。不可抗力だよ」


 しれっと言ってのける心之介を、今度は俺がジト目で見やることになった。俺の家同様、七海家も隣同士の壁は薄いらしい。それにしてもこれだけシスコンの弟に見張られている生活を送っているとは、ゆきも苦労するな。


「大河、なんか失礼なこと考えてただろ」

「いや別に。お前みたいな弟を持ってゆきも大変だなと思っただけだ」

「やっぱり考えてるじゃないか」


 横から、ゆきがふふっと笑う声が聞こえた。


「大河と心ちゃん、前蛍兄さんも交えて話しているときはそんなに感じなかったけど、いま二人の会話を聞いていると本当に兄弟みたいだね。正直、蛍兄さんと心ちゃんのやりとりより兄弟っぽいよ」

「だって蛍兄さんはちょっと怖いし。大河は結局他人だから気まずくなったら顔を合わせなければ済むだけ。そう思えば気楽に話せるでしょ?」


 ずいぶんとばっさりとした物言いをされた気がするが、心之介の話はまだ続くようだった。


「それに、大河は裏表がなさそうだから。僕にぶつける言葉がそのまま、本音なんだろうって思う。蛍兄さんみたいに腹芸ができるタイプじゃないでしょ。だから変な探り合いなんてしなくても、普通に話ができる」

「それは同感だな。大河は自分を飾らない。蛍兄さんの友人たちを見ていて、年ごろの男子は大抵見栄を張るものだと思っていたが、必ずしもそうとは限らないらしい」


 思いがけずゆきが相槌を打ってきたので、俺は自分の言動を思い返す。


「確かに、あえて自分をいい風に見せようとは思っていないな。大して関心を持てない奴らに対して、そういうモーションをとるのは面倒だ。それに、俺にとって大事な人であればあるほど、素で接してもそういうものだと受け入れてくれる。だから見栄を張る必要性を感じない」

「相変わらず大河はめんどくさがりだね」

「そうかもな。でも、ゆきも心之介も、そんな俺を受け入れてくれた。だからこの家は居心地がいいと感じられるんだ」


 思えば、七海の家に来た時は入れ替わりというふざけた状況下であったにもかかわらず、俺は居心地の悪さを感じなかった。それはゆきの精神衛生を何よりも重視する家庭環境もさることながら、決して愛想がよいとはいえない俺を受け入れてくれる寛容さがあったからだ。

 この家で一番俺のことを警戒していた心之介でさえ、その警戒心はゆきを心配するが故のものであって、俺自身を嫌っているそぶりは見られなかった。今だって、兄とは認めないなどと言いながらもこうして軽い言い合いに乗ってくれるし、本気で嫌悪しているわけではないとわかっている。それもこれも、ゆきが俺のことを拒絶していないからだろう。受け入れられるというのは、心地の良いものだ。


「それはお互いさまだよ。私はこんな言動と見た目のせいで同級生との間に壁ができることが多かった。でも大河は、君の言葉を借りれば『素で接しても、そういうものだと受け入れてくれる』人だった。君と知り合えてよかったと心から思っている」

「ああ。俺もだ」


 穏やかなゆきの言葉に頷くと、いつの間にか腕組みをしていた心之介がじっとこちらを見つめてきた。


「結局、大河はこれからもうちに来るんでしょ?」

「そうだな。リビングを借りて勉強会をさせてもらったり、たまにはゆきとお菓子を作るのもいいな」


 先ほどゆきと話したことを告げると、心之介はふーんと唸る。


「まあいいよ。姉さんが楽しそうなら僕はそれで充分だ。蛍兄さんも大河のことは認めてるみたいだし、好きにすれば」

「そうさせてもらう」


 投げやりにも取れる心之介の言葉に真剣に返答すると、彼はふうっと息をついて立ち上がった。


「ま、ゆっくりしていきなよ。僕にとっての兄さんは蛍兄さんだけだけど、ま、準兄さんくらいには思ってあげてもいいかな」


 さっさと二階に上がっていった心之介を見送る。隣でゆきが小さく息を吐いた。


「悪い、大河。心ちゃんは優しい子なんだが。どうも君を前にすると上から目線になってしまうようだ」

「別にいいよ。さっきも言ったけど、心之介が俺を嫌っているわけじゃないのはわかっているからな。それに、俺は男きょうだいがいないから。弟がいたらこんな感じなのかと思うとちょっと新鮮で面白い」


 思ったままのことを口にしたのだが、ゆきは再び赤面した。俺は自分の言った言葉を頭の中で反芻してその理由に思い当たる。


「あ、あくまで比喩的な意味だからな。別に実の兄弟になるとか、そこまで考えが回っているわけじゃないから」

「そ、そうだよな。あまりにも自然に口にするから、驚いてしまったよ」


 ゆきはなおも少し動揺したように、椅子から立ち上がる。


「大河は急いでうちに来てくれたんだろう? 手ぶらだったし。今日は帰ってゆっくりした方がいいんじゃないか。きっと山吹やまぶきさんも心配しているし、私の家に来る機会はこれからいくらでもある」


 彼女に指摘されて、俺はようやく自分がスマホひとつ持った身の着のまま飛び出してきたことを思い出した。確かに、今の話の流れで会話を続けてもお互い赤面する展開になりそうだし、仕切り直した方がいいかもしれない。


「突然押しかけて悪かったな。じゃあ、また明日学校で」

「いや、ありがとう。大河が来てくれたおかげで救われたよ。またね」


 さっと片手を上げたゆきに見送られ、俺は七海家を出た。玄関まで見送ってくれるのかと思いきやリビングで別れたのはちょっと予想外だったが、「他人の家」感が薄くてそれはそれで悪くないものだと思った。

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